「恋の病」って、どういうことをいうんだと思う?


僕の病が君にうつってしまったのなら、光栄だけどね。




LOVESICK




香穂さんの様子がおかしいと気付いたのは、臨海公園に遊びに行った直後だった。
朝、一緒に登校してもなんだか少し距離を置かれているような気がするし、授業中もノートを見せてもらおうと近づこうとすると、離れていってしまうのだ。
…もしかして、あのキスが嫌だった…?
浮かんでくる疑問を慌てて打ち消す。
そんなことは無いよね。
香穂さんは自分と同じ気持ちだって言ってくれた。
…ほんの少し、自分の気持ちに負けてしまったことに後悔しそうになる。
僕は疑問を確かめるべく、香穂さんが練習しているはずの森の広場に足を向けた。


そこに香穂さんはいた。
森の広場の、ひょうたん池のほとりに。
小さな後ろ姿が、一心不乱にヴァイオリンを奏でていた。
いつものように、僕の心に響き渡る美しいヴァイオリンの音色。
…でも、少しだけ変だ…?


「香穂さん」
そっと近寄って声をかけると、小さな背中がびっくりしたように一度、震えた。
「…あ、葵くん」
振り向いたその顔は、笑顔なのに何故か焦ったような表情で。
「僕も一緒に練習していいかな。君が良ければ一度合わせてみようよ」
僕はその変化に気付かない振りをして、持ってきたヴィオラを掲げた。
「…うん、お願いします」
香穂さんは微笑んで言った。
「こちらこそよろしくね」
僕も微笑んで返した。


…曲は、「アメイジング・グレイス」。
僕の好きな曲だ。
二人で奏でる二重奏。
いつもなら、君と奏でることが嬉しくて嬉しくてたまらないはずなのに、何故か今日はそうじゃない。
それは、香穂さんから感じられる不協和音のせい…?


…なんとか曲は弾き終わった。
香穂さんの演奏は、心ここにあらず、という感じがあからさまだった。
ヴィオラをすぐそばのベンチに置き、何か言おうと口を開きかけた瞬間、彼女の言葉で遮られた。
「分かってるよ、葵くんの言いたいこと…気付いてるよね、私の音がおかしいこと」
香穂さんの様子がおかしい。
真っ赤になってうつむいたまま、僕の顔を見ようともしない。
ただ、ヴァイオリンの弓を、手が痛いほどぎゅっと握り締めている。
「…香穂さ」
僕は彼女に触れようと手を伸ばした。


「…ダメ!!」


その瞬間、彼女は顔を真っ赤にして僕の手を振り払った。
…え、何この反応…?
「あ、あのね、葵くん。しばらく、一緒に練習とか登校出来ないから。…ごめんね」
僕の最愛の人は、顔を真っ赤にしながらそう言うと走り去ってしまった。


…ああ、そんなに走ると危ないよ。
こんな時だって、自分の頭に浮かぶのは、君を心配する気持ち。






それから。
本当に学校にも先に来てるし、授業中だってあからさまに避けられるようになってしまった。
放課後だって、さっと練習室へ行ってしまう。
理由は、さんざん考えた。
でも、結局最後にはこの答えに行き着いてしまう。
…僕に出来ることは、一つだけだ。
僕の足は練習室へと向かった。


やっぱり、香穂さんのヴァイオリンはいつもと違う。
彼女もそれは気付いてるらしく、時々演奏を止めては指を確認している。
僕は、練習室の扉を軽くノックした。
「葵くん…!!」
顔を上げた瞬間、練習室の扉のガラス越しに、僕の姿を確認した彼女はびっくりした顔をしていた。
扉に駆け寄り、ドアノブに手をかけようとして、その瞬間動きが止まる。
そして、体を反転して僕に背を向けて言った。
「…ごめんね、今は一人で練習したいから…」
僕も体を反転させ、香穂さんと背中合わせになるように扉にもたれかかる。
「うん、分かってる。…でも、これだけはどうしても言っておきたくて」
僕は息を一つ吐き、言った。


「…香穂さんがどこにいて、何をしていても僕は香穂さんの味方だから。これだけは忘れないで」


そう。
結局、僕にはこれしかないのだ。
彼女に初めて出逢って、その演奏に心を奪われて、こうして近くにいることが出来るようになった今でも、僕は彼女を見守ることしか出来ない。
例えそれが重荷に感じられても、僕から離れることを望んでも、陰ながらでも僕は彼女の支えでありたい。


…そっと、背後から扉に背中を押される。
ゆっくり振り向くと、今にも泣き出しそうな彼女のうつむいた顔があった。
「…うまくね、ヴァイオリンが弾けないの。葵くんのことを考えると。葵くんのそばにいると。胸がドキドキして、いつも触れていたくて。いつも葵くんのこと考えてる。こんな自分ダメだって思って。…だから、少し距離を置こうとしたの」
そこで彼女は顔を上げて言った。
「でも、葵くんから離れたらもっとダメだった。…やっぱり、葵くんがいないと、私ダメみたい」


彼女の言葉が嬉しくて嬉しくて。
気持ちが溢れ出しそうになる代わりに、彼女を抱き締める。
それはね、恋の病って言うんだよ。


そして、彼女の耳に囁く。
「…ねえ、どうしたら安心してくれるのかな?」
僕はいつだって君のものだし、君が望めば何だってしてあげるよ。
いっそのこと、いつも触れ合っていようか?
真っ赤になる彼女の唇に、僕はキスを落とした。









<あとがき>
たまには加地スキーな香穂子もいいんじゃないかと。




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