A time limit to celebrate a birthday




−PM12:42−

今日という一日は土曜日という休日をいいことに、昼過ぎまで布団の中で爆睡、という怠惰な目覚めから始まった。
自分でも気付かないうちに疲れていたのかもしれない。間近に迫った卒業式、終了式。
年度末の3月は、通常の授業に加えてやらなければならない雑多な事務作業がある。


加えて、今年は。
来学期から長期の休暇をとるために、行わなければならない細々とした手続きがあった。
自分で決めたこととはいえ、これがかなり面倒だった。大の大人が一人、渡米して喉の検査を受けるために短い間滞在することの、なんと手続きを踏まなければいけないことの多いことか。この秋までの俺だったら、面倒臭い、と投げ出していたかもしれない。それでも各所に書類を提出して、なんとか渡米する目途が着いたのはつい数日前のことだ。


そんなこんなで、やっと来た休日に惰眠を貪ってしまったわけだが。
さすがに寝すぎたか、と布団から抜け出して冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで一口煽った。
…何故か、ひどく孤独を感じた。
今まで前だけを向いて、単調な事務作業をこなしてきたが、それが一段落するとやっと周りを見られる余裕が出て来たらしい。
身辺を整理して、身軽になったつもりでいたが。
身軽になったつもりが、逆に自分の心を丸裸にされて、残された感情を浮き彫りにさせられるかたちになった。
今回は検査のための渡米だ。もう戻って来ないわけではない。
それでも、こんなにも酷く心に圧し掛かる想い。


日野とは最近会っていない。
それも当然といえば当然、あと2週間もすればオーケストラコンサートだ。週末は実際のホールで音合わせの忙しい期間だろう。
なにせ、彼女はコンミスだ。
求められる高い技術の演奏、コンミスとしての重責、彼女に与えられたプレッシャーは並大抵のものではない。
放課後も、毎日遅くまで練習しているらしい。いち音楽教師のためにわざわざ音楽準備室まで演奏を聞かせにやってくる時間もないだろう。
それでいい。今回の試練は彼女を大きく成長させるものであるし、これから演奏家として大成していく上でも貴重な経験となるだろう。
…それでも。顔が見たくて、彼女の笑顔に触れたくて。
頑張っている彼女を見守りたい、その気持ちは本当だ。それと同時に、こんなにも彼女の演奏を、存在を、独占したい気持ち。
しかし、二度と同じ過ちは繰り返さないと誓った。
彼女に、逢いたいとは到底言えない。言ってしまったら、きっと歯止めが効かなくなる。
誰かをこんなにも暖かく見守れる、想えることを俺は初めて知った。
そして、この気持ちに“孤独”という名前があることも。


犀は投げられた。
もう後は進むだけだ。






−PM4:37−
…自分は、つくづく未練がましい性格だ、と思い知らされる。
なんとなく昼食を作るのが面倒臭くなって、外食するために休日の街へ出てきたはいいが、実際に足を向けたのは臨海公園だ。春のコンクールから、彼女がよく練習をしていた場所でもある。
彼女の演奏を聴きながらよく腰を降ろしていたベンチに腰掛ると、なんとなくここに彼女がやって来る気がして、ついその場を離れ難くずるずると長居をしてしまっている。
こんな所に彼女が来るはずはない、ともちろん頭では分かっていた。
それでも、彼女の面影を求めて、こんな所までやってきてしまう未練がましさ。
全く成長してない、と深くため息をつく。
後ろには傾き始めた午後の太陽に照らされたオレンジ色の海。
腕を組んで、俯く。そして彼女の演奏を頭の中で思い出す。


ここで彼女の演奏を聴いてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
あの頃から比べたら、信じられないくらいの成長速度だ。ずぶの素人だったのに、今ではコンミスを務めるまでに成長した。とても並大抵の努力で成せる所業ではない。
頑張っている彼女に何かしてやりたくて、よく奢ったっけ…と思い出して思わず苦笑。
一度など冗談で言ったのに焼肉を奢らされた。しかも遠慮なしに良く食うんだ、これが。


「公衆の面前で思い出し笑いですか。他人の振りをしておけば良かった」
不意に頭から降って来た言葉に頭を上げると、目の前には腕を組んで眉をひそめた吉羅が立っていた。
「おー、珍しいな。お前さんがこんな所に来るなんて」
吉羅はため息交じりに言った。
「ちょうど、オーケストラの練習を見に行った帰りにここの前を通ったら、車窓からあなたがいるのが見えましてね」
オーケストラ、という単語に反応したのを知ってか知らずか、吉羅は言葉を繋いだ。
「で?ここで何をしてるんです」
俺は苦笑いしながら言った。
「ただの散歩だよ。短くても、もうすぐ日本を離れるからな。とりあえずの見納め、ってやつさ」
俺の言葉に、吉羅は口元を歪めた。
「随分感傷的なんですね。…ああ、丁度良い。見納めついでに、いつもの店で食べ納め、といきませんか?」
そう言われて、俺は既に日が暮れて、早めの夕食を摂ってもおかしくない時間になっていることに初めて気付いた。
どうやら、昼食は食べ損ねてしまったらしい。






−PM6:11−
いつもの店、いつものカウンターで夕食をとることになった。
お互いの近況、他愛も無い雑談。いつしか話題は今度のオーケストラコンサートに移っていった。
「仕上がりは順調です。…頑張っているようですね、日野くんは」
「…そうか」
俺が薄く微笑んだのを見て吉羅は軽く驚いたようだった。
「金澤さんも、昔と比べると随分丸くなりましたね…まあ、今日でまた一つ年をとったのだから、当然と言えば当然なんでしょうけど」
…?え?何だって?
「吉羅、さっきの言葉、もう一回言ってくれ」
「…?昔と比べると」
訝しがる吉羅の言葉を遮って俺は叫んだ。
「そうじゃない。その後」
吉羅は、苦虫を潰したような、それでいて薄く笑った表情で俺を見た。
「…まさか、今日が御自分の誕生日であることを忘れていたんじゃないでしょうね?」






−PM7:18−
自分の誕生日をすっかり失念していることに、自分自身驚いた。
まさか、健忘症ですか?だから予定も無く公園にいたり突然夕食に誘っても断らなかったんですね、と吉羅に散々嫌味を言われた。散々人をけなしておいても、やはり誕生日に公園で一人たそがれる中年男性を見て放って置けなかったのだろう。持つべきものは学生時代の友人だ。
誘ったのは自分だから、というもっともらしい言い訳で夕食は吉羅の奢りとなった。その吉羅は、これから学院に残してきた仕事があるからと、早々に引き上げていった。ウーロン茶しか飲まなかったのはそのせいらしい。何だよ、誕生日なのに冷てーじゃねーか、という俺の言葉はことごとく無視され、変わりに『深酒しないで早く帰って下さいね』と繰り返し言われた。…なんだったのだろう。吉羅にしては、かなりしつこく念を押されたような気がする。


そう言われても、なんとなく一人の暗い部屋に帰る気がしなくて、ついついその店に長居をしてしまった。
久々に飲みすぎてしまったなと自分でも思い始め、誕生日だからたまには贅沢に、とタクシーを呼んだのは11時になる直前だった。





−PM11:14−
車窓から、流れる横浜の夜景をぼんやり眺める。
ライトアップされた東京タワーが小さく見えた。
去り際、吉羅が小さく呟いた言葉を思い出す。
『コンサート、成功しますよ』
そんな気遣いが出来るようになったのか、奴も大人になったもんだ、と自分のことはさて置き、一人で感慨に耽る。
…いつもとそう変わりない、誕生日。
去年だって、なんの予定もなく日常の一コマのように過ぎていった。今年は、吉羅がお祝い(?)してくれた分、マシな方だ。
そんなことを考えながら、何の気なしに歩道を眺めていたら、知っている後姿を見た、ような、気がした。
思わずバックウィンドウからその姿を振り返る。
それも一瞬のことで、車はどんどん遠ざかってゆく。
思わず腕時計を見る。
あと数十分で、今日が終わる時刻だ。
吉羅の話では、練習は遅くても7時くらいには終わる予定だ、と言っていた。それもその筈、彼らは高校生だ。こんな夜中まで練習させるわけにはいかない。
だから、現実問題彼女がこんな時間にこんな所を歩いている筈は無かった。
第一、学校とも、練習場所になっているコンサートホールとも方向が違う。
見間違いだ、と自分に言い聞かせてアパートに着くまであと数分、タクシーのシートに身を委ねた。






−PM11:32−
それから数分後。
俺は今タクシーで辿ってきた道を全力疾走で戻っていた。
息が切れる。深酒をしたせいで、もつれる足。こんな状態で走れることの方が不思議なくらいだ。
もう若くないことを実感する。
こんな時後悔するのは煙草をもう少し早く止めていれば良かった、とか仕様も無い事だ。
それでも力の限り走り続ける。
その先に、彼女の姿を探して。


アパートの自室の前にたどり着いた時、最初に目に入ったのはドアノブにかかった白い四角い紙袋だった。
新手の保険の勧誘か、と紙袋を開くと、綺麗にラッピングされた小さな、箱。
箱を丁寧に開けると、中から木の箱で出来たオルゴールが出てきた。
微かに震える手を押さえつつ、ネジを巻く。


聴こえてきたのは「愛のあいさつ」。


タクシーの中で、彼女を見かけてから大分経っていた。
一向に彼女の姿は見えない。
吉羅の言うことをちゃんときいて、言うとおりに早く帰宅しておけば良かった、と猛烈に後悔する。
おそらく、自分のアパートの場所を彼女に教えたのは吉羅だろう。
そして、今日彼女がやってくるのを知っていたからしつこく早く帰れ、と言ったのだ。それなのに、俺は。
一旦足を止め、人通りの全く無い深夜の歩道を、荒い息を整えながら左右に見渡す。
左手には、オルゴールの入った紙袋。
もう駅に着いて電車に乗ってしまったかも、と諦めようとしたが。
不意に思いついて、夕方まで過ごした臨海公園へ足を向ける。
再び走り出す。
不思議と、とっくに限界は超えている筈なのに、足は止まることを知らなかった。






−PM11:48−
そして。
夜の臨海公園で、外灯に照らされた彼女の後姿をようやく見つけた。
練習後から家には帰ってないのだろう、右手にはバイオリンケースを抱えていた。
その姿を見た時、胸が締め付けられるのを感じる。
彼女は夕方まで自分が座っていたベンチの前に佇んでいたからだ。
数時間前の自分と、彼女と。ようやくパズルのピースが合わさったようで、胸が高鳴る。
上がってしまっていた息を整え、彼女に近づく。
「日野」
彼女は肩を一度大きく震わせたが、こっちを振り向こうとはしなかった。
「お前…」
「−ごめんなさい!!」
次の瞬間、彼女は予想外の行動に出た。謝罪の言葉を口にすると、こちらを一度も見ることも無く走り出したのである。
思わずあっけに取られたが、すぐに自分を取り戻し彼女を追う。
今までの疲れや、彼女が高校生であることを差し引いても、彼女に追いつける自信はあった。というより、ここで追いつけなかったら男が廃る。


「ちょっと待て!!」
それでもやっとの思いで追いついて、彼女の左腕を掴む。
それで足を止めることには成功したが、振り向かせた彼女は俯いたままで、その表情を窺い知ることは出来ない。
公園の外灯が、二人を照らす。視界の端に、小さく東京タワーが見えた。
言いたいことはたくさんある。
でも、考えて、考え抜いてようやく出たのはこんな陳腐な説教だった。
「…お前さん、今何時だと思ってるんだ」
掴んだままの彼女の左腕に力がこもる。
自分の不甲斐なさに反吐が出る。それでも、結局選択してしまうのはこんな台詞。
違う。こんなことを言いたいんじゃない。…本当は。もっと。
その時、小さな声で彼女が呟いた。
「…ごめんなさい。先生に怒られるの、分かってるけど、でも。どうしても」


顔上げ外灯に照らされた彼女の顔は、綺麗で。
「先生の誕生日、どうしても今日中に直接お祝いしたくて」


まっすぐに俺の顔を見上げて言った。
その顔は、予想外の笑顔で。


「先生。お誕生日おめでとう」


こんな時間に一人で出歩く危険とか、練習後で疲れているのに無理して体調を崩したらどうするとか。
言いたいことはたくさんある。
でも今は、彼女がこんな俺のために祝ってくれた、その事実がこんなにも嬉しくて。
それと同時にこんなにも苦しく、切ない感情を覚える。
「…馬鹿だな、お前さんは」
馬鹿なのは自分だ、と思いながら彼女を抱き寄せる。


「ありがとう」


せんせい、と彼女が呟いたような気がした。
そんな彼女の言葉を封じるように、強く抱き締める。


「プレゼント、嬉しかったよ。…向こうにも、持って行くから」


泣き出した彼女は、暫くそうした後、囁くように言った。
「今日に、間に合ったかな…?」






−AM0:00−
その瞬間、遠くに微かに見えていた東京タワーの電灯が消えた。東京タワーの電灯は通常午前0時になると消える。
今日が昨日になった瞬間だ。
「ああ。間に合ったよ」
髪を撫でると、彼女は頭を俺の胸に預けた。
夜の闇に溶け込むように、重なっている二つの影。
このまま溶けてしまえばいい、と本気で思った。
コンサートも渡米も関係なく、どこか遠い所へ二人で行ってしまおうか、なんて馬鹿な考えを浮かべては消した。
今はまだ、その時ではない。しかし、いつか何の障害も躊躇も無く、二人共に過ごせる日が必ず来る、とこの胸に刻む。


…さて。
自分はこの時程教職に就いていて良かった、と思うときは無いだろう。
心配しているであろう、親御さんに連絡を取らせ、練習時間が長引いてしまったことをお詫びした(もちろん嘘であるが)。そして改めて誕生祝いを仕切り直すことを了承させられ、渋る彼女をやっと送っていったのだった…。









2008年金澤先生誕生日企画、「金誕。」様に投稿させていただいた作品です。
この企画が縁で初めて絵チャットというものに参加しました…!!
素敵な金澤先生作品が多くてとても楽しかったです。
同時に自サイトでこの話の香穂子視点の話(In time for celebration on a birthday)を公開させていただきました。




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