朝のHRの時間。
恋をすると、何でもない日常が突然特別な時間に変わったりすることもある。
「今日はこのクラスの担任が急に休みになったので、俺が変わりにHRを仕切ることになった。…まず出席取るぞー」
香穂子の胸は高鳴った。
いつもは音楽室でしか教壇に立つ姿を見られない金澤が、見慣れた自分のクラスでしかも出席を取っている。
…こんな嬉しいハプニング、音楽の授業がない学校も来てみるものだ。
もう少しで自分の番。
返事の声が裏返ったりしないか、緊張しながらその時を待つ。
「橋本ー」
「はい」
「日野ー」
「はい」
…我ながら、冷静を装うことがうまく出来たと思う。
胸の鼓動を抑えつつ、こっそりと息を吐き出す。
自分の番が終わると後は落ち着いたものだ。
自分より後の生徒の名前を呼ぶ金澤の低く、でもよく通る声を聞きながら、香穂子は軽い不満を抱いた。




Please call my name.(ver.金澤)




「ねえ先生、私のこと、名前で呼んで?」
「…は?」
放課後の音楽準備室。
日課となった、金澤との時間。
窓の外から差し込む夕暮れの日差しが、二人を暖かく照らしていた。
香穂子はスチール製のイスに座り、自分のデスクに座る金澤と向き合っている。
「今日、うちのクラスで出席取ったでしょ」
「ああ、今朝のやつか。急に教頭に代理頼まれちまってなあ。…めんどくせーなーと思ったけど、まあそれが勤め人のつらいとこ、ってね」
金澤は、雑然と書類の置かれたデスクにコーヒーカップを置いた。
「最初は、先生が来てくれて嬉しかったんだ。でも、先生が他のみんなと同じように私の名前を呼んで、ああ、やっぱり私は生徒なんだ、みんなと同じなんだなって少し悲しくなって…」
香穂子はうつむいて、自分のひざの上で重ねられた両手を見つめる。
「おいおい、出席取るのに下の名前で呼んだらまずかろう?」
金澤は苦笑しながらイスから立ち上がり、煙草に火をつけた。
香穂子がはじかれたように顔を上げる。
「だから、二人だけの時でいいの。それならいいでしょ?…ね、先生、お願い」
金澤を見つめると、彼は困ったように首の後ろを掻いている。
数秒後、懇願するような表情の香穂子を一瞥して言った。


「…無理だな」


「…どうして?二人きりの時だけでも?」
搾り出すように発せられた香穂子の声。
金澤はそんな香穂子の方を見ずに、煙草の煙を吐き出した。
「一度そう呼び始めたら、どこでうっかりそっちの呼び方をしちまうか分からない。授業中にそんな事態になったら困るだろ?」
金澤はそ知らぬ顔で煙草を灰皿の上に置く。
香穂子はうつむくと、両手をぎゅっと握った。
「私は先生とならかまわない!!…別に学校だって辞めたって…!!」


次の瞬間、つかまれる両肩。
窓からの光が逆光になってその表情はうかがい知れないが、多分怒っているのだろう。
つかまれた両肩が痛い。


「…お前さん、それ本気で言ってるのか。もしそうだとしたら怒るぞ」


自分がいけないことは分かっていた。
言ってはいけないこと、おそらく金澤が言われたら一番傷つくことを、自分は言ってしまった。
それでも、かたくなに自分を拒絶されたことが悲しくて。
こんなことを言う自分は呆れられてしまったのかも、と焦る気持ちも後押しして。


「…先生のバカ!!」
香穂子は金澤の手を無理やり振りほどくと走り出し、音楽準備室の扉を乱暴に開閉し出て行った。
パタパタと、走り去る足音が小さくなる。


後に残された金澤は頭を掻くと途方に暮れたようにつぶやいた。
「ったく、人の気も知らないで…」






屋上は、下校時間を過ぎているせいか誰もいなかった。
秋も深まるこの季節、太陽の出ている時間はどんどん短くなっている。
太陽はその姿を隠し、かわりに夜の闇が少しづつ辺りを覆っていく。
香穂子は、教室に置きっぱなしになっていたヴァイオリンをケースから取り出した。
あの後、冷静になって教室に寄って持ってきたものだ。
…何であんなこと言っちゃったんだろ…。
思わずヴァイオリンを抱き締める。
金澤が言った、断りの理由ももっともだ。
確かに現実問題、香穂子とのことが世間に知られれば、金澤は少なくとも星奏にはいられないだろう。
香穂子だって、決して学校を辞めたいわけではない。
ただ金澤に拒絶されたことが悲しくて、思わず売り言葉に買い言葉で学校を辞める、という発言をしてしまった。
分かってはいるが、何故だか金澤に対してはわがままを言ってしまう。
無理な要求をしてしまう。
金澤は香穂子に対して何も要求しない。
それが余計に悲しくて、自分はもしかしたら他の生徒と同列なのか、想いを通わせ合ったと思ったのは自分だけなのか、と不安になる。
先生、わがまま言ってごめんなさい。でも私、…先生の「特別」になりたい。
自分と金澤を繋ぐのは、このヴァイオリンだけだ。
暗闇に向かって挑むように立つ。
校庭から吹き上がる風が香穂子の髪を揺らす。
意を決すると、バイオリンをかまえた。


「愛のあいさつ」。
この曲を以前ここで弾いたときは、純粋に金澤を好きな気持ちだけでいられた。
先生のことが好きで、この気持ちが大切で、ただ一心に気持ちを叫ぶだけで満足していられたのに…。
いつの間にか、欲張りになっている。
名前を呼ばれて、あわよくば触れて欲しい、なんて思ってる。
一番大切なのは、私が先生のことを大好きだ、という気持ち。
香穂子は最後のフレーズを弾き終わると息をつき、弓を下げた。
その瞬間。


よく知った、煙草の匂い。
香穂子は振り返ろうとしたが、肩にかかる重みで動けなかった。
後ろから伸びてきた金澤の両腕が、香穂子の胸の所で交差し組まれている。
肩に感じる、金澤の体の重み。


「…香穂子」


胸の奥で電気が走ったように甘い痛みが走る。
そう呼ばれることを、心から望んでいたはずなのに。
泣きたくなるのは何故だろう。
この腕も声も、金澤の全てが泣きたい程愛おしくて。


「…先生」
「んー?」
「わがまま言ってごめんなさい」
「別にわがままじゃないさ。だけど、学校辞めてもかまわない、っていうのはナシな。そんなことを言わせるために俺はお前さんとこうなってる訳じゃない。…この学校で、まだまだヴァイオリン弾きたいだろ?」
香穂子はうなずく。
春のコンクールで得たものはたくさんある。
お互いを高め合えるライバル達、何でも話せる親友、ちょっと強引な妖精。
そして何より、金澤に出会えたこと。
金澤から学びたいことは、まだまだたくさんある。
「先生」
「なんだ?」
「もう名前で呼んで、なんてわがまま言わないから。…私は先生の「特別」だって、ちょっとだけうぬぼれてもいいかなあ…?」


金澤は一つため息をつくと、香穂子の耳に唇が触れるか触れないかの所でささやいた。
「あんな真面目なこと言っているが、本当は体裁とかどうでもいいんだ。…一度名前で呼んだら自分で歯止めが利かなくなりそうで…怖いんだよ。これでもなあ、なけなしの自制心を総動員してお前さんに触れてるんだぞ」


途端に頬が熱くなる。
「まあ、たまには呼んでやるよ。ただし…」


金澤は香穂子の肩をつかむと、自分の方に向かせた。
暗闇でもはっきりと分かるくらい、赤くなった香穂子の顔を覗き込む。
「俺の自制心がどれだけ続くか、保証はしないがな」

うつむいたままの顔を思わず上げると、怖いくらい真剣な顔の金澤と目が合う。
金澤は潤んだ香穂子の左の目じりを親指でこすった。


「せんせ…」
沈黙に耐えられなくなった香穂子は、何か言おうと口を開いた。
その途端、金澤の唇で自分の唇が塞がれる。


鼻腔をくすぐる煙草の香り。
それがキスだと分かるのに数秒かかった。
軽く触れるだけの優しいキス。
金澤の気持ちが流れ込んでくるようで。
その点、先生の唇って意外に柔らかい、なんて冷静な自分がいる。


こんな金澤を知ってるのは、自分だけ。









<あとがき>
金澤先生に名前を呼んでもらうなら、どんなシチュエーションがいいだろうとこの話を思いつきました。
吉羅理事長ページに同タイトルのお話がありますが、この話と対比しています(もちろん単体でも読めます)。
最初ラストはこんな予定じゃなかったのですが、次に金澤目線で書かれた次のお話(Do not call a name.)を考えている時に変えました。




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