「…先生のバカ!!」
香穂子は金澤の手を無理やり振りほどくと走り出し、音楽準備室の扉を乱暴に開閉し出て行った。
パタパタと、走り去る足音が小さくなる。


後に残された金澤は頭を掻くと途方に暮れたようにつぶやいた。
「ったく、人の気も知らないで…」




Do not call a name.




彼女が音楽準備室に入ってきた時から、今日は何かある、という予感はしていた。
そもそも、今朝突発的に入ってきた香穂子のクラスでのHRの監督。
出席を取った辺りから、彼女の表情がみるみる曇っていくのを見逃さなかった。
そして、今目の前にある何か追い詰められているような、すがるようなその瞳。
分かっていたのに、気づかない振りをしてしまった。


名前を呼べ、ときたもんだ。
金澤は、新しい煙草に火を点けた。
香穂子が何か要求してくるのも分からなくはなかった。
普通の女子高生なら、彼氏と放課後一緒に帰りたがったり、デートに連れて行ってもらいたがったりするのは当然の欲求だ。
名前で呼ぶことなんて、ごく自然なことである。
それなのに、自分達ときたらデートはおろか、名前で呼び合うことにだって制約がつく。


どうしたもんかね、と頭を掻く。
金澤だって普通の男だ。
好きな女と一緒にいたいし、特別な名前で呼ぶ、なんて独占欲も当然ある。
しかし、自分の勝手なエゴで、香穂子を学院にいられなくなるような事態だけは避けなくてはならない。
自分はいい、教師という職業にそれ程執着は無かったし、この学校だって香穂子が卒業してしまえば転勤してしまってもなんら支障はない。
でも、香穂子は。
ヴァイオリンの魅力に目覚めたばかりだ。
ヴァイオリンを学ぶにはこの学院は最高の環境だ。
ちょっと邪魔だがお互い学び合えるライバル(こいつらみんな香穂子に気があるんじゃないか?)もいる。
友人もたくさんいる。
それを香穂子自身も分かっているだろう、それだけに自分のために学院を辞める、という選択肢だけは冗談でも考えさせてはならない。


「…俺だって、ぎりぎりのところで踏み留まっているんだぜ」
金澤は、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。






屋上への階段を上る金澤の耳に、聞き覚えのある音が飛び込んできた。
…「愛のあいさつ」。
ひたすらに愛しい人への愛を奏でる、曲。
そっと屋上への扉を開くと、どうしてこの体からこんな演奏ができるのだろう、と思うほどの華奢な後ろ姿が一心不乱にヴァイオリンを弾いていた。
…まるで、泣いてるみたいだな。
以前彼女がこの曲を弾いてくれた時は、みずみずしく愛を歌う喜びにあふれていた。
それを俺がこんな風な演奏にさせちまってるんだな。


そっと気付かれないように香穂子に近づく。
香穂子は最後のフレーズを弾き終わると息をつき、弓を下げた。
その瞬間。


華奢な体を、後ろから包み込む。
体重を預けるように、香穂子の肩を抱き締めた。
香穂子は一瞬体を震わせ、振り向こうとしたがそれを許さない強さで組まれた腕に力を込める。


「…香穂子」


口に出してしまえば、愛しさが募って。
今まで考えてた理由とか、立場とか、もうどうでも良くなる。


「…先生」
「んー?」
「わがまま言ってごめんなさい」
「別にわがままじゃないさ。だけど、学校辞めてもかまわない、っていうのはナシな。そんなことを言わせるために俺はお前さんとこうなってる訳じゃない。…この学校で、まだまだヴァイオリン弾きたいだろ?」
香穂子はうなずく。
「先生」
「なんだ?」
「もう名前で呼んで、なんてわがまま言わないから。…私は先生の「特別」だって、ちょっとだけうぬぼれてもいいかなあ…?」


…は?
なんで今更?
そんなこと改めて言わなくてもとっくに分かってるもんだと思ってた。
…やっかいなもんだな、気持ちって。
自分に以前の喉があれば、この気持ちを高らかに歌ってやれるのに。
想いを、まるごと香穂子にあげられるのに。


金澤は一つため息をつくと、香穂子の耳に唇が触れるか触れないかの所でささやいた。
「あんな真面目なこと言っているが、本当は体裁とかどうでもいいんだ。…一度名前で呼んだら自分で歯止めが利かなくなりそうで…怖いんだよ。これでもなあ、なけなしの自制心を総動員してお前さんに触れてるんだぞ」
一つのことを許せば、人はどんどん欲張りになっていく。
気持ちはどんどん膨らんで、もっとそばにいたい、触れ合いたいと願うだろう。
香穂子のことを想えば想うほど、そうしたい自分と自制する自分、二つの気持ちがジレンマに陥るのだ。


後ろから抱きしめている香穂子の体が熱を帯びる。
屋上の風に乗って香穂子の髪から漂う甘い香りが、金澤の脳髄に警鐘を鳴らす。
少しだけなら、と自分を甘やかしそうになる。
「まあ、たまには呼んでやるよ。ただし…」


金澤は香穂子の肩をつかむと、自分の方に向かせた。
暗闇でもはっきりと分かるくらい、赤くなった香穂子の顔。
うつむいた瞳はかすかに潤んでいた。
赤く、濡れた唇。
華奢な肩が上下に揺れる。
少しだけ荒い呼吸が、金澤の最後の理性を吹き飛ばす。
「俺の自制心がどれだけ続くか、保証はしないがな」
金澤は潤んだ香穂子の目じりを右手の親指でこする。


「せんせ…」
…頼むから、その名前で呼んでくれるな。
何か言おうとした香穂子の唇を自分の唇でふさぐ。


今だけは、その名前で呼ばないでくれ。








<あとがき>
前作「Please call my name.」のお話のラストを書いていたときに、これ金澤視点で書いたら面白いかなあと思ってわーっと書いてしまいました。
先生が香穂子との一線(気持ちの上での話)を超えるのはどこだろう、と。
やっぱり、先生という肩書きを放棄した時かなと。
あれだけ名前呼ぶのにしぶってた先生が、意外に手が早いのは言わない方向で(笑)
原題訳は、「名前を呼ばないで」です。




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