放課後の音楽準備室。 いつものように、「演奏を聴いて下さい」とやってきた彼女。 そんな日常を気に入っていた。悪くない、と思っていた。 それと同時に、このままでいいのだろうか、という思いが自分の心の中を占めた。 彼女の演奏はまだまだ伸びる。だが、今のように自主練習だけではどうしても限界がある。 ヴァイオリン専門の教師に適切な指示を仰ぎ、指導を受けさせた方が良いのではないか。 いくら音楽教師といえども、自分はヴァイオリンは専門外であり、適切な指導者とはいえない。 このままここで彼女が貴重な時間を潰してしまうのを、受け入れていいのだろうか。 今が一番大切な時間を、自分の所で無駄にさせていいのだろうか、と。 彼女を一人前の演奏家として大成させてやりたい、と考えている。多くの人に、演奏を聴いてもらいたい、と。 それ程までに、彼女の演奏は何か人の心に訴えるものを持っている。 そんな風に思っていても、彼女がやってくるのを心待ちにしている自分も確かに、いた。 理由は明確だ。 そう、この気持ちを使い古された言葉で括るのならば。 俺は、彼女に恋をしている。 初めてその事実を自覚した時、愕然とした。 そして、恐れを抱いた。 そんな身勝手な理由で自覚もなく彼女をここに繋ぎとめている自分。 ためにならない、と分かっているのにあえてそれに目を閉ざして彼女に隠しているあさましさ。 分かっているのに、俺は彼女がやってくるのを拒絶出来ずにいた。 そんな風に逡巡していた矢先の出来事だった。 俺は、彼女の演奏をいつもの自分の椅子に座って聴いていた。 何故だか今日の演奏は気が入っていない。どこか上の空で、他のことに気をとられている様だ。 演奏が終わり、彼女はいつも座っている俺の目の前のスチール製の椅子に腰掛け、うつむいた。 いつもは他愛もない雑談をしたり、今の演奏について語り合ったりするところだ。 珍しく押し黙った彼女に、軽い不安を覚えた。 何かあったのか、と彼女の顔を見れば真剣な表情でうつむいている。 思わずどうかしたのか、という問いの言葉を彼女に投げかけようとした時、彼女がぽつりと呟いた。 「先生が、好きです」 言いたい 言えない 不意に発せられた言葉を、理解するのに数秒かかった。 思わず彼女から目を逸らす。 そうしてしまったのは、事態を受け入れる為に必要だったからだ。 最初に心に去来した感情は、驚きだった。何故こんな俺を、という思い。 彼女にとってはただのうだつの上がらない音楽教師、それ以上でもそれ以下でもないと思っていた。何故なら、彼女に想いを寄せられる要素は何もない。 こんな、死んだように日々を生きている男にどんな魅力があるというのだ。 嬉しくない、と言えば嘘になる。自分が想いを寄せる相手が自分のことを好きだ、と告げたのだから。 何をしている、彼女を抱き締めて自分も同じ気持ちだ、と告げればそれで自分の思いは成就されるだけの話ではないのか。 不思議と、教師と生徒だからという誠実な教師なら誰しもが考えうる拒絶の理由は浮かばなかった。 そんなことよりも、もっと自分には怖いことがある。 …彼女の可能性を潰すことだ。 告げてしまえば、彼女は「音楽教師が演奏の指導をする」という大義名分もなくここにいてくれるだろう。 それ以上に、自分は彼女をここに縛り付けずにいられる自信が無かった。 今だって、きっと身を切る想いで自分に想いを告げてくれたであろう、彼女を抱き締めてやりたい。 でも、そうしてはいけない。 演奏家の卵として、これからいろんなことを吸収し、成長してゆく彼女を自分勝手な理由で自分の元に繋ぎとめておく、なんていうことはしてはいけない。 第一そんなことになったら、自分で自分を許せないだろう。 彼女がそれを、望まざるにしても。 彼女のヴァイオリンに対する想いは本物だ。 それは演奏を聴いていれば分かる。 彼女を想う気持ちと同じくらい、彼女を演奏家として大成させてやりたい気持ちは大きい。 ただ、それさえも自分勝手な理屈だと、自嘲する。 理由もなく、理屈もなくただ彼女の想いを受け止めたい自分も確かにある。 ただ、純粋な彼女の想いを受け入れるには、自分は大人になり過ぎた。 それでも、諦め切れなくて意地汚く逡巡する。 「………すまん」 しばらくの沈黙を破ってやっと自分の口から発せられたのは、結局こんな安直な言葉だった。 言ってしまってから、悔恨と、彼女の痛みを想って心で血を流す。 どうか。 酷い奴だと、こんな奴を想っているのは間違いだった、と俺を恨んでくれ。 「俺には、受け止められない」 がたん、と日野はスチール製の椅子から音を立てて立ち上がった。 横目で、彼女の白い手が動くのを視界の端に捕らえる。 「−!!」 手をつかんでしまったのは、本当に無意識だ。 つかんでしまってから、そのことを少し後悔する。 こんな風に、言えないくせに自分の元に留めて置きたいなんて。 「…頼む、行かないでくれ」 下を向いたまま、低くつぶやくように言う。 とても、顔を見ることなんてできやしない。 「…先生は、ずるいよ」 吐き出すように、苦しそうに発せられた彼女の言葉は。 そんな傷ついた彼女の言葉にさえ、愛しさを感じるなんて。 日野は、すとんと元の椅子に座り込む。 手は、まだ握ったままだ。 ここにいて欲しい。 でも、受け止めることも突き放すこともできない。 臆病な自分。 なんて勝手な大人。 なんて勝手な感情。 どうしようもなく汚くて、ずるい、俺の恋。 とても恋なんて呼べる代物じゃない。 繋いだ手さえ、後ろめたさを感じる。 それでも彼女がここにいてくれることの事実を嬉しいと思うなんて。 どのくらいそうしていただろうか、時間が止まってしまったかのような部屋を、日野の一言が沈黙を突き破る。 「…それでも、そんなずるい先生が、大好きなんだよ」 何故だか、ずっと以前日野が先生は時々つらそうな顔をするよね、と呟いたのを思い出す。 「先生が楽しいとき、一緒に笑い合いたいし、悲しいときは一緒に泣きたい。同じ痛みも、苦しみも分かち合いたいと思う…それが私の好きってことだから」 顔を上げると、思いがけず彼女の笑顔に出会った。 まるで陽だまりのような笑顔。 本当にかなわない、と思う。 彼女は、俺の痛みも苦しみも受け止めたい、と云う。彼女の可能性も気持ちも何もかも受け止める覚悟の出来ない、どうしようもなく情けない自分のことを。 彼女は、いつだってそうやって今までの困難を軽々と、何でもないように乗り超えてみせる。その裏にどんな覚悟と努力を秘めているのだろう、とても想像できない。 ああ、だから俺は彼女が好きなのだ、と唐突に自覚する。 彼女のその強い光を放つ瞳が。その細い体から奏でられる音楽が。なにより、どんな困難にもへこたれないその強さが。 彼女の強さは多くの人を変えた。自分もその例外ではない。 なにもかもから逃げ出し、毎日をまるで生きているように見せかけている自分。そんな自分を、彼女はその強さで再び光の当たる方へ導いてくれた。 俺の見当違いな逡巡など、彼女は吹き飛ばしてくれる。 むしろなんとかしなくてはいけないのは、彼女にここにいて欲しい、と縛り付けてしまいそうな自分自身の甘ったれた心だ。 「日野、俺は…」 彼女に相応しい人間になりたい、と思う。 今はまだ、彼女に応えられるような人間ではない。 逃げてばかりの自分。まずそこから向き合わなければ、到底彼女に相応しい人間にはなれない。 彼女を手放す気は毛頭なくなっていた。自分から諦めてしまえば、本当に自分は自分でなくなってしまう、と心底痛感する。 彼女の全てを受け入れられる、そんな覚悟の出来るように、必ずなる、と心に誓う。 「今は無理でも。…いつか、必ず。ちゃんと言うから…」 今度こそ彼女の瞳を見つめて言う。 彼女は驚いたようだったが、すぐ笑顔になって言った。 「待ってます」 繋いだ手は、どこか暖かくて。 この日、俺は久し振りに未来の約束を交わした。 これもリハビリの第一歩だったのだろうかと、後にして思った。 |
<あとがき> お題挑戦第1弾。 絶賛小説スランプ中につき、カンフル剤になればと思い、お題挑戦始めました。 先生のぐるぐる悩みっぷりが、著者の心情を如実に表しています(笑) close |