※注意※
・このお話は、オーケストラコンサート無視のバレンタイン話です。







音楽準備室の扉を開けた途端、愕然とした。
いつも雑多な書類や資料が雑然と置かれている金澤の机に、色とりどりにラッピングされた明らかにチョコレートと分かる、小箱が溢れんばかりに置かれていたからだ。
思わず、左手に持っていた鞄の持ち手をぎゅっ、と握る。






手料理






我ながら、頑張った、と思う。
生まれて初めてお菓子作りの本を買って。
昨日の放課後、はやる気持ちを抑えつつ、スーパーで溶かし用チョコやら無塩バターやら買い出した。
ラッピングの準備だって完璧だ。
まるで女の子みたい(女の子だけど)、となんだかこそばい気持ちを感じて、人知れずにやにや。
だって、明日はバレンタインデー。
唯一、先生という肩書きのあのひとに想いを告げる、大義名分のある日。


たとえ、「義理チョコ」だとしても。


夕ご飯を慌しく食べて、いよいよ製作開始。
滅多に料理をしない私が、台所に籠もるなんて明日は雨かしら、と母と姉に冷やかされる。
心配そうに覗いてくるから、思わず一人で平気だから!なんて手助けを突っぱねる。
散々悩んで作ることに決めたのは、トリュフチョコだ。
少なめの砂糖の分量で作るから、あまり甘いのが得意でない先生でも平気だろう。
納得いかなくて、何度か作り直し、夜中までかかって出来上がったものを箱に入れて綺麗にラッピングする。
最初に作ったものは、もちろん家族行きだ。


出来上がった物を、感慨深く眺める。
作っている間ずっと先生のこと考えてた。
あげたら、どんな顔をするだろう。喜んでくれるかな、これ日野が作ったのか、すごいなあ、なんてちょっと見直されたりして。作っている間中先生のことを考えると幸せだった。
これは先生への愛情がいっぱい詰まっているから、きっと甘い味がするだろう。




…と、とりあえず鞄に忍ばせて音楽準備室に持ってきてしまったのだが。
「おー、日野、早いなあ」
不意に、準備室の扉の方から声がする。
「せっ、せんせい」
振り向くと、戸口のところにいつの間にか金澤が立っていた。
思わず持っていた鞄を後ろ手に隠す。
そんな香穂子を不審に思ったのか、金澤は首を傾げた。
「…?何だ?何かあったのか?」
動揺していることを悟られないよう何か注意を逸らすもの、と辺りを見回すと、例のチョコレートの山に目がいった。
「えっと、あれすごいなあって思ってっ」
香穂子の動揺を知ってか知らずか、ああ、あれねぇなんて言いながら金澤は困ったように首の後ろを掻いた。
「そういや今日はバレンタインデーなんだってな。なんだか知らないけど、いつの間にか置いてあったんだよ。…ったく、義理チョコかなんだか知らないが、こんなイベントを利用して教師を買収しようなんてなあ」
こんなことで内申を良くしようなんて、考えが甘いんだよ、なんて冗談めかして言いながら音楽準備室の扉を閉めた。
…義理チョコ…?
これだから、鈍感な人を好きになると苦労をする、と香穂子は人知れずため息をついた。
山になっているチョコのいくつかは、明らかに手作りだ。趣向を凝らしたラッピングが、その存在を主張している。
何処の世界に教師に義理で渡すチョコを手作りして、わざわざ凝ったラッピングをする女子がいるというのだ。
金澤は、そんな乙女心に気付いているのかそれともわざと気がつかない振りをしているのか、そ知らぬ顔でカップにコーヒーを注いでいる。
とりあえず、今日は金澤の鈍さに感謝する。
「ほい、日野。コーヒー、飲むだろ?」
差し出されたカップを受け取る。
「あ、ありがとうございます」
いつも座っているスチールの椅子に座り、暖かいカップを両手で包む。


最初からチョコは、「義理」として冗談ぽく渡すつもりだった。
だって、この想いを、本当に伝えようとすればきっと先生は困るだろう。
もしかしたら、毎日のようにこの音楽準備室にやってきて、演奏を聴いてもらえるのも気まずくなってしまうかもしれない、という不安。
ずるい、と分かっていても、決して譲れないポジション。この放課後の特等席は、自分だけの指定席だ。
だからこそ、伝わらなくても、本当の気持ちをチョコに乗せて届けたかったのだ。
この日のためにチョコレートに込めた想い。
しかし、このチョコを作った人達だって、きっと作っている間中金澤のことを考えていただろう。そう、自分と同じように。
そう考えると、胸の奥がきゅっとなる。
「本命」と言って渡せない自分。
「義理」として渡すくらいなら、最初から渡さない方がいいのではないのか。
そんなの、金澤に対しても、チョコに対しても、失礼だ。なにより、自分の気持ちを偽っている。


「せんせい、は」
「うん?」
まるでうわごとのように呟いた香穂子の言葉に、金澤はカップを口元に持って行きながら反応した。
「もし生徒から本命チョコを差し出されたら受け取りますか」
金澤は飲んでいたコーヒーを思わず吹き出した。熱いコーヒーを飲むのが好きなのが災いした。熱湯に近かったコーヒーが左手の甲にかかる。
「うわあっち!!」
「大丈夫ですか、先生!?」
驚いた香穂子は、とりあえず拭くもの、とハンカチを取り出すために床においてあった鞄を勢い良く取り上げた。その時、鞄に忍ばせてあるチョコレートのことは全く失念していた。
力任せに鞄の口を開くと、勢い余ってチョコの箱が床に転がり落ちてしまったのだ。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
ちょうど自分の座っているスチールの椅子と、デスクの椅子に座っている金澤の中間に、チョコは転げ落ちた。
一瞬、床のチョコの箱に視線を固定して固まる1組の男女。
どうしよう、と香穂子が思考を巡らせていると、すでに落ち着きを取り戻した金澤は側にあったタオルで手の甲のコーヒーを拭った。
「あー、焦った。…お前さん、教師をからかうもんじゃないぞー」
金澤は笑ってごまかすことに失敗した。香穂子は下を向いたまま、ぴくりとも動こうとしなかった。
…こんな形でこのチョコを先生の前に出すことになるとは思わなかった。
どうしよう。もうごまかすことなんてできない。
私の気持ちは、チョコという形となって先生の前に差し出されてしまった。
もう「冗談」とか「義理」なんて言葉で後戻りすることは出来なくなってしまっていた。


すっと、金澤の手が伸びて、床のチョコを拾い上げる。
その小さな小箱を手の平に乗せて、かるく埃をはらうと香穂子に差し出した。
「…誰かのために一生懸命作ったんだろ?ちゃんと渡してやれ」
一瞬箱を見て、自分の目の前に立っている金澤の顔を見上げる。
彼は、苦々しそうな、それでいて悲しく微笑んでいた。
「無駄になったら、お前さんの気持ちがかわいそうだろ」


金澤の手から、そっと箱を受け取る。
昨夜、このチョコを作った時のことを思い出す。
すごく幸せだった。
受け取ってもらえなかったらどうしよう。気まずくなったらどうしよう。
そんな心配は、二の次だ。
まず大事なのは、自分の気持ちをちゃんと相手に伝えること。
もし、このまま私が他の誰かにこのチョコを渡すつもりだった、と先生に勘違いされていることの方がよっぽどつらい。


改めて、両手で包むように箱を持って金澤に差し出す。
「先生のために作ったんです」
金澤は、一瞬目を見開いた。
「本命、です」
とても顔は見れない。下を向いたまま、祈るような気持ちで受け取ってくれるのを待つ。


やがて、金澤が口を開いた。
「…さっきの答えだがなあ。『生徒から本命チョコを差し出されたら』申し分けないが丁重にお断りするが」
思わず、ぎゅっと目をつぶる。やっぱり、先生を困らせてしまった。


不意に、両手が暖かくて柔らかいものに包まれるのを感じた。
顔を上げると、しゃがみこんで私の顔を覗き込む先生と目が合う。私の両手は、先生の両手に包み込まれていた。
一瞬、ふっと笑って箱を私の手から取り上げる。
「ありがとな」
そして、そっと耳元で囁いた。


『…本命、受け取ったのは、お前さんだけだから』


空いているほうの手で、私の頭をくしゃり、と撫でる。
先生の言葉。受け取ってもらえた想い。先生の手が優しくて、嬉しくて、思わず涙ぐむ。
無駄じゃなかった。勇気を出して良かった、私の気持ち。


金澤は、ゴホン、と一つ咳払いをして立ち上がると自分の席に戻った。
心なしか顔が赤い。
「…開けていいか?」
はい、と小さく返事を返すと、彼は丁寧に包装を解く。
小さな箱に等間隔に詰められたトリュフチョコを、一粒摘まんで口に放り込む。
「甘い。…日野は、お菓子作りが上手だな」
チョコのついた右手の親指を、ぺろりと舌で舐める。その仕草が、あまりにも艶っぽくて思わず見とれる。
目が合った瞬間、気持ちを読まれたのかと思って思わず立ち上がる。
「…えっと!!一曲弾かせて頂きます!!」
照れ隠しに言うと、ヴァイオリンを構えた。


そして、甘い恋の曲を弾く。
たまにはこんな曲もいいだろう。
だって、今日はバレンタインデー。
恋する女の子がチョコレートに想いを託して、大好きな人に気持ちを告げるとっておきの日だから。








<あとがき>
「手料理」っていうお題だと、先生の手料理を思い浮かべますが、製作時期がバレンタインデー直前だったので、こんな感じになりました。「手料理」っていうより「お菓子作り」ですね…。





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