In time for celebration on a birthday 恋する女の子だったら、好きな人の生まれた日を当日にお祝いしたい。 そう思ってしまうのは、当然の願望で。 しかもそれが、つい何週間前かのバレンタインデーに告白して、好感触を得たばかりだというのならなおさらだ。 高校2年生である日野香穂子も、例にもれずそんな女子の一人だった。 ただ、普通の女子高生とちょっと違うところは、約2週間後に本番を迎えるオーケストラのコンミスを務めている、という点だった。 当然、大好きな人の誕生日でせっかくの休日の土曜日は、これみよがしに練習の予定がびっちりと詰まっているわけで。 今日は朝から本番の会場であるコンサートホールで音合わせである。 −PM3:07− 午前中から続いた練習も、お昼休みを経て午後の練習も一段落となった。 練習は実際のコンサートホールのステージ上で、通しの演奏を何度か行った。 休憩時間となり、飲み物を取りに控え室に戻る者、雑談に興じる者、さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように雑然となったステージ上で、香穂子はヴァイオリンを膝の上に置き、一人椅子に座ったままため息をついた。 指揮者である、都築の要求はかなり厳しい。オーケストラ全体に対する要求はもちろん、コンミスである香穂子にはさらに上のレベルの演奏を求めているのをひしひしと感じる。 いくら練習してもしても足りない気がする、と香穂子は唇を噛んだ。 …もっと、頑張らなくては。 コンサートは絶対に成功させたい。 ここまで頑張ってきた自分やオーケストラメンバーのために、応援してくれてきた友人達のために。 そして何より、その成長を見守ってくれた大切な人に、今の自分が持てる精一杯の演奏を届けたい。 思わず膝の上のヴァイオリンを見つめ握り締めたとき、自分の視線の先に影が落ちるのを感じた。 「そんなに強く握ったら弦が傷んでしまう」 聞き覚えのある嫌味な声に顔を上げると、そこには予想通りの人が腕組みをして立っていた。 「吉羅理事長…!!」 彼は、口元を歪めて言った。 「…今日の演奏は、心ここにあらず、といった演奏だね。何か気になることでもあるのかね」 その言葉にハッとなる。 練習中は、先生の誕生日のことは気にしないようにしていた。しかし、この嫌味な理事長には今日の香穂子の演奏の荒さがお見通しだったらしい。当然、都築も気付いているだろう。 自分の甘さが悔しくて、思わず俯いた。 「演奏家たるもの、演奏に私情を挟んではならない。それがオーケストラ全体を率いるコンミスとなればなおさらだ。それは分かっているね」 「…はい」 俯いたまま、小さく返事をする。理事長の言うことは正しい。コンミスがこんな迷いばかりの演奏を続ければ、オーケストラ全体にその不安が波及し、全体の不調和音となる。 吉羅はそんな香穂子を見下ろして、ふっとため息を吐いた。 「分かればよろしい。…君は頑張っているよ」 その言葉に思わず顔を上げると、吉羅はスーツの内ポケットから手帳を取り出し、何かペンで書き込むとそのページを破って香穂子に手渡した。 「たまにはいいだろう。ご褒美だ」 「…?」 訝しげに香穂子は受け取ると、中を開いた。 そこに書いてある内容に驚いて顔を上げる。吉羅はすでに背を向けてステージから降りて行くところだった。 思わず大きな声で呼びかける。 「理事長!!」 吉羅は、背を向けたまま歩きながら一度軽く左手を上げた。 その後ろ姿に、香穂子はありがとうございます、と小さく呟いた。 −PM7:23− オーケストラの練習は午後7時には終わった。 メンバー達は、朝からの練習で疲れきった体を引きずるように、それぞれの楽器を片付け帰ってゆく。 都築は譜面台を片付けながら、練習の終わりを告げても一向にその場を動こうとせず、俯いたままの香穂子を見て不審に思った。 今日の演奏は確かにおかしかった。しかし、何故か午後の後半の練習からは持ち直し、それから予定していた今日のリハーサルは滞りなく消化した。もし前半の調子のままで行かれていたらこのまま居残ってもらうつもりでいたが、後半持ち直したおかげでお咎めなし、と思ったのだが。 調子でも崩したのだろうか、と少し不安になって香穂子に近づいて言った。 「どうしたの、日野さん。今日の練習は終わりよ。帰り支度をなさい」 都築が話しかけた瞬間、香穂子は弾かれたように顔上げ都築の目を真っ直ぐに見てきっぱりと言った。 「都築さん。これから、私の練習に付き合ってください」 その真剣な表情に思わず目を瞬かせる。 「今日の練習はもう終わったわ。そんなに根を詰めなくても大丈夫よ。明日だって練習があるんだし…」 そんな都築の言葉を遮るように香穂子は言葉を告げる。 「今日の演奏、どうしても自分で納得いかないんです。無理をしているわけでも、焦っているわけでもないんです。うまく弾けるなんて思ってない。…でも、今日だけは。今日だけはどうしても自分で納得の出来るまでの演奏をしたいんです」 本当は、吉羅の残してくれたご褒美を、今すぐ実行したい気持ちはあった。 自分でも馬鹿なことをしている、と思う。折角のチャンスなのに。 でも、そうすることでしかこのご褒美に、吉羅の心遣いに報いることは出来ない、と思っていた。 きっとそうすることを先生も望む筈だ。 都築は香穂子の目をじっと見つめた後、諦めたように軽くため息をついて言った。 「…仕方ないわね。どんなに長くてもあと1時間よ?」 その瞬間、香穂子の顔に笑顔が浮かぶ。 「ありがとうございます!!宜しくお願いします!」 −PM9:18− 結局、練習が終わったのは1時間をとうに過ぎた9時過ぎだった。 送っていく、という都築の申し出を丁重に断り、いよいよ吉羅からもらったご褒美をもらいに行く。 ホールを出ると、まだ少し肌寒い空気が体を包んだ。今日から3月とはいえ、まだまだ夜は寒い日が続くようだ。 繁華街の方へ歩く。遠くに、微かに光る東京タワーが見えた。空気が澄んでいる証拠だ。 実は、前からこれを先生の誕生日にプレゼントしようと思っていたものがあった。本来なら、明日の練習が終わった後にそれを買いに行って、月曜日の放課後に渡そうと思っていた。 幸いそれを売っている雑貨屋は深夜まで営業している。これから行っても、間に合うだろう。 逸る気持ちを抑えつつ、夜の横浜の街を歩いて行った。 −PM10:16− 「…ここ、だよね?」 とあるアパートの一室の前。 吉羅から渡されたメモに書いてある住所と、アパートの入り口に書いてあった住所は一致した。 メモの最後に書かれた部屋の号数の前に立つと、その部屋の扉の横には『金澤紘人』の文字。 そう、私は。 初めて、金澤先生の住んでいるアパートの部屋の前に来てしまった。 許可も無く大人の男性の一人暮らしの部屋を訪ねるなんて、なんて大胆なことをしているんだろう。 しかし、携帯で前もって連絡していったらきっと断られてしまうだろう。ちょっとしたサプライズだ。プレゼントを渡したら、顔を見たらすぐに帰ろうと思っていた。 ここに来て、心臓が早鐘を打つ。あまりの緊張に思わず眩暈がしそうになった。 気を取り直して、大きく深呼吸をしてから、意を決してドアの横のチャイムを鳴らす。 …? 部屋の中からチャイムの乾いた音が小さく聞こえてくるだけで、人の動く気配は無い。 念のためにもう一回鳴らしてみる。 やはり、反応は無かった。どうやら本当に留守らしい。 「…なんだぁ、留守…」 拍子抜けして、思わずドアを背にもたれかかってその場にしゃがみ込む。 折角意を決してやって来たのに、当の本人はいない、というお粗末な結果に思わず全身の力が抜ける。 あまりにも浮かれ過ぎて、留守だとは全く考えていなかった。それはそうだろう、誕生日に予定があっても決しておかしくはない。ましてや、金澤は大人の男性だ。いろんな誘いがあるだろう。 そう考えると、急に香穂子の胸に不安が襲ってきた。 今ここに来るまで浮かれすぎていて、良い方向にしか物事を考えなかった。 …先生は、今何処で何をしているんだろう。 紙袋に入った、綺麗にラッピングされたプレゼントを見てため息をついた。 玄関のチャイムを鳴らしたら、先生がいて。 びっくりした顔に、この想いをぶつけるつもりだった。 …先生のことが、好きで、好きで。 何度も態度に表したり、ヴァイオリンに想いを託して伝えようとしたりしたのに、どこか避けられてるような気が拭えなくて。 バレンタインに告白して、やっと想いを受け入れてもらえた、と思ったのに。 やっぱり、こうして当日に誕生日をお祝いしてあげることも出来ない。 そしてもうすぐ先生は日本を離れてしまう。 教師と生徒という関係以上に、実質的に距離は二人を離してしまう。 それでも、どうしても諦められない。 膝を抱え、見つめている視線の先にある靴のつま先が急にぼやけた。 …知らず知らずのうちに、涙が溢れていた。 思えば、先生と逢う時はいつも周りの目を気にしていて、どこか一線を置いていて。 離れてしまったら。 本当にもうダメになってしまうの…? 思わずプレゼントの入った紙袋を握り締める。 これは、私の答えの証だ。 …もう、先生はこれを受け止めてくれるのかも分からない。 一通り泣いて、泣き止んだら。 初めて時計を見て、時間の遅さに驚いた。 「うわ!!こんな時間!!」 家に何も言ってきてはいない。怒られることが心配で携帯から連絡を入れることを躊躇してしまったからだ。おそらく、心配しているだろう。 こんな時間までここでこんなことをしているのが分かったら、先生だって心配するし、きっと怒る。もしかしたら、ここまで勝手にやって来たことだって、快くは思わないかもしれない。 そんな風に、思考がマイナスの方向にループしていくのを頭を振って止める。 …少し戸惑って。 それでも意を決して、そのまま紙袋をドアノブに掛け振り向かずにその場を後にする。 私からのプレゼントだということは、包みを開ければきっと分かる、と思う。 これを見て先生はどう思うだろう。喜んでくれるだろうか、それともこんな所までやってきて自分の留守にプレゼントを押し付けていったことに対して、不快感を示すだろうか。 こんな風に自分の気持ちを勝手に押し付けるなんて、狡い、と分かっていてもどうしても誕生日を祝う気持ちだけは伝えておきたかった。 −PM11:25− その場所に、足が向いたのは自分でも説明がつかない。 何より終電の時間が危ない、急いで駅に向かわなくてはいけないのに、こんな所に自分は来てしまった。 いつもヴァイオリンの練習をしていた、臨海公園。 外灯に照らされ、人気の無い臨海公園のベンチの前に佇む。 …よく、先生はこのベンチに座っていたっけ。 休日でも先生に逢いたくて、よくわざとここで練習をしていた。 先生は目を閉じて、私の演奏を聴いてくれていた。休日なんだから、教師らしいアドバイスを求めてくれるなよ、なんて言いながらも気付いた点は冗談交じりに教えてくれた。 …あと数ヶ月で。 ここにも、先生は来なくなってしまう。 ここに来れば、先生はもしかしたら来てくれるかも、という淡い期待も出来る。 それさえももうすぐ叶わない。 そうか、自分は先生の面影を求めてここにやってきてしまったのだ、と唐突に理解する。 思い出だけを、ほんの少しの温もりだけを求めてこの場所に来るのは辛過ぎる。 …胸が苦しい。 夜の闇の中で、月の光だけに照らされた暗い海に吸い込まれそうだ。 遠くに見える、東京タワーの明かりがやけに綺麗で、思わずまた泣きそうになる。 「…ふ」 大きく深呼吸して、やっとの思いで泣くのを止めた。先生に逢えなくて、情緒不安定なのかもしれない。 胸に手を当てて肩の力を抜くと、やっと呼吸が楽になる。 本当にもう帰らなくてはならない。 そう思ってその場を動こうとした時だった。 「日野」 驚きで心臓が止まるかと思った。 背中越しに、振り向かなくても声で分かる。 走ってきたのだろうか、少し荒い呼吸で自分の名前を呼ぶ、最愛の人。 一番逢いたかったひと。 一番逢いたくなかったひと。 本当はすごく嬉しいはずなのに、いや、嬉しいのに、何故か逢いたくなかったという気持ちが入り乱れる。 この場所に来てくれた。もしかしたら先生も同じ気持ちかもしれないという想いと。 残してきてしまったプレゼントを突き返すために追いかけてきたのかもしれない、という不安と。 格好良くプレゼントを置いてきたのに、こんな時間にこんな所で、未練たっぷりに先生のことを想っているところを見られたくは、なかった。 「…お前」 「−ごめんなさい!!」 先生が何か言うやいなや、振り向きもせず全力で走り出す。 追いかけてきて欲しい、追いかけてきて欲しくない。 プレゼントを残してきてしまったことを今更酷く後悔する。 格好良く、好きな気持ちを託してその場を去ったのに。 格好悪い、未練がましいことこの上ない。 何より拒絶されたくない、この場所で、こんな風に追いかけてきてまで想いを拒絶されたら。 きっと、この場所にはもう二度と来れなくなる。 「ちょっと待て!!」 それでも、香穂子の努力も虚しく掴まれる左腕。それはそうだ、いくら女子高生といっても大人の男性の脚力には負ける。 上がった息を整えつつ、金澤の次の言葉を待つ。 俯いた視線の先の金澤の左手には、ついさっき香穂子が置いてきたプレゼントの紙袋があった。 しばらく沈黙して、発せられたのは意外な言葉だった。 「…お前さん、今何時だと思ってるんだ」 掴まれたままの左腕に力がこもった。 ぎゅっと、心臓が痛くなる。 それはそうだ、教職者として、教え子がこんな深夜ともいえる時間に街中をふらふらしていたら怒るのは当然だろう。 思わず涙ぐみそうになるのをぐっと堪える。 …今は泣いちゃだめだ。 例え拒絶されても、格好悪くても、どうしても今日、伝えなくてはいけない言葉がある。 小さな声で呟く。 「…ごめんなさい。先生に怒られるの、分かってるけど、でも。どうしても」 勇気を出して顔上げると、そこには怒ったような、それでいて悲しそうな先生の顔があった。 「先生の誕生日、どうしても今日中に直接お祝いしたくて」 その顔を見ただけで、拒絶されたらどうしよう、とか、そんな不安はどこかへ飛んでしまう。 ああ、私はこの人の顔を見たかったんだ。 それだけで良かったんだ。 自然と、笑顔が零れる。 「先生。お誕生日おめでとう」 今日、この日に。 先生に逢えたことに、感謝します。 「…馬鹿だな、お前さんは」 不意に抱き寄せられ、次の瞬間には先生の腕の中にいた。 「ありがとう」 その言葉が、嬉しくて。 こんな風に心配させたことを謝ろうと、呟いた瞬間、息も出来ないくらい強く抱き締められる。 「プレゼント、嬉しかったよ。…向こうにも、持って行くから」 その言葉は、今の自分には最高の言葉で。 思わず、堪えていた涙が止まらなくなる。 −渡したプレゼントは、手巻き式の小さなオルゴール。 曲は、『愛のあいさつ』。 先生が、向こうに行ってもこれを聴いて私のことを思い出してくれるように。 そして、私の想いは変わらずこの箱の中に詰まっていると。 この贈り物はその証だ。 許されるなら、私の気持ちと一緒にこれを持っていって欲しい、と願いを込めて。 その意思は確かに先生に伝わり、成就された。 先生の腕越しに、涙でぼやけた東京タワーが見える。 しばらく泣いて落ち着くと、急に気恥ずかしくなって小声で言った。 「今日に、間に合ったかな…?」 −AM0:00− そう言った瞬間、涙で滲んだ東京タワーの電灯がふっと消えた。誰かが言っていた、東京タワーの電灯は12時になると消えるらしい。その瞬間をカップルで見ると、幸せになれる、なんて都市伝説めいていてとても信じられない、とその時は思ったものだが。 …今なら、信じてもいい。 「ああ。間に合ったよ」 先生に髪を撫でられると気持ち良くて、思わず頭を先生の胸に預ける。 何もいらない、幸せな時間だ。 ずっとこの時間が続けばいい、時が止まってしまえばいい、なんて安いドラマみたいな台詞を本気で思った。 しかし、そんな訳にはいかない。 やるべきことがまだある、自分にも、先生にも。 それを投げ出すようなことは先生は絶対にしないし、私にも望まないだろう。 そんな先生が大好きなのだから。 …それから。 先生に家に携帯で電話を入れさせられ、一緒に親に謝ってくれた。 親にはオーケストラの練習が長引いてしまった、と嘘をついてしまった。嘘も方便だろう、まさか先生の誕生日を祝うために遅くなりました、とは親を心配させないためにも言えない。 親も先生が一緒なら仕方ないでしょう、と渋々ながらも納得してくれた。 私は、こんな時間までどこにいたんですかとか、どうしてこんなにお酒臭いんですかとか誰と飲んでいたんですかとか言いたいことはたくさんあったけど(後日それは一人酒だったと聞いて拍子抜けした)、誕生日のお祝いを仕切り直しさせてくれる約束で納得し、終電も終わってしまっていたのでタクシーで先生に家まで送っていってもらった。 今日のことを思い出す度、ここに来る度、私は頑張れる、と思う。 |
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<あとがき> 2008年金澤紘人誕生日企画「金誕。」様に投稿させていただいた作品「A time limit to celebrate a birthday」の香穂子サイドの話です。 作中に出てくる場所や時間は全て作者の創作なので、ご了承ください。 私の書く先生も香穂子も、何故かうだうだ悩む傾向にあるので、来年は甘々な誕生日にさせてあげたいです…。 close |