こんな夕暮れは、煙草が恋しくなる。






煙草






小さな箱からほんの6センチ程の麻薬を取り出し、口にくわえ火を点ければ、それだけで少し気持ちが落ち着けたから不思議だ。
イタリアにいた頃は、大量の煙草を吸った。
ニコチンを肺いっぱいに吸入すれば、嫌なことを少しだけ忘れられた。
声楽家にとって煙草は死神にキスするようなものだ。命とも言える喉を、少しずつ壊してゆく。
喉なんて壊れてしまえばいい。もう、恋の歌なんて歌えない、歌いたくもない。
思い返してみれば、俺の元から去った彼女への当て付けだったのかもしれない。
彼女の為に、喉を潰してしまいたかった。未練がましくても、それだけが彼女に愛を捧げる最後の手段だ、と見当違いな思い込みをしていた。
そんなことをしても、彼女はもう戻らない。そんなことは分かっていた。
ただ、何もかもが若かったのだ。
それでも、格好もつけられず、逃げるように帰国して人様の好意に甘えて教職に就いている。
俺の人生、これで全て語れる、と思っていた。
ほんの、数ヶ月前までは。


禁煙してから、どのくらい経つのだろう。
煙草を吸う、という行為が日常化してしまっている愛煙家にとって、無意識に煙草を探す、という行為は癖のようなものだ。
俺も例外ではなく、何かあるごとに、ついついポケットを探ってしまう。
そこで禁煙していることを自覚し、小さく舌打ちをする。
何となくいたたまれなくなって、煙草の匂いの染み付いた音楽準備室を後にした。新鮮な空気でも吸えば気分も変わるかと、いつもの特等席、屋上への階段を昇った。
今日は、きっと夕焼けが綺麗だろう。


いつもの屋上への扉を開けば、目の前いっぱいに広がる期待通りの夕焼け。
吸い込まれそうだ、と目を細める。
こんな綺麗な夕焼けには、どんな曲が合うのだろうか、と考えを巡らす。おあつらえ向きの曲が思い浮かぶと同時に、何故だか赤い髪の少女がその曲を弾いている姿を想像した。


不意に彼女が傍にいるようで、思わず周囲を見渡す。でもそれは一瞬のことで、そんな訳はない、と思わず自嘲。
昨日の放課後、いつもの様に演奏を聴かせに音楽準備室にやってきた時、「明日はアンサンブルメンバーで練習があるから」と言ってた。こんな所にいる筈はない。
屋上の手すりに肘をつく。
視線の先には、練習室が見えた。たった数メートルの距離、そこに彼女がいる。


たった数時間、彼女と逢えないだけで。
こんなにも、心を掻き乱される自分がいる。止めた筈の煙草を欲しがるほどの焦燥。
自分で決めた筈だ、変わると。
無くしてしまった大事なものを取り戻す為に。彼女に相応しい男になる為に。
それでも、左手が求めてしまう、煙草よりもっと甘美な誘惑。
彼女の頭を撫でたい。手に触れたい。あわよくば、頬に、唇に。


ああ、末期だ、と内心で頭を抱える。
無意識にまた白衣のポケットを探る。
そこで、何か小さく硬い物に手が当たった。先程は無かったのに、と思う。どうやら探ったのとは反対側のポケットに手を突っ込んだらしい。
そっと手の平に握って取り出すと、それは飴玉だった。白く両端を捻り結んである包装紙に、色とりどりのハートマーク。まるで女子高生が書くような書体で“いちごみるく”と小さく書いてある。
そうだ、昨日日野が。
『禁煙中で、口が寂しいのなら先生にひとつあげます』と強引に白衣に突っ込んでいったものだ。
疲れた時には甘いものがいいんですよ、なんて言いながら口に放り込んでいたっけ。
『先生には特別です、この飴大好きで誰にもあげたことないんです』内緒ですよ、なんて人差し指を唇に当てて上目遣いに見上げてくるから、おいおい、そんな可愛い顔するなよ、抱き締めたくなっちまうだろうが、なんて願望を必死に我慢したものだ。
その時は、こんな甘ったるそうな飴、もらってもなあ…と思ったものだが。


包みの両端を引っ張って、小さな丸い砂糖の塊を口に放り込めば、甘さが口中に広がる。
予想通りの甘さに辟易しながらも、ふと彼女も今頃この飴を舐めているだろうか、と空想する。


二人だけの秘密。内緒のフレーバー。
二人同時に味わえたら、それは。


まるで、キスしてるみたいだな。


ふと我に返って、まるでこれじゃあ思春期の高校生みたいだ、と苦笑する。
どうやら、本当に末期らしい。
彼女の存在は、俺にとってもはや煙草以上に常習性の強い麻薬のようなものだ。
足りない、彼女が。
彼女の音楽が、声が、笑顔が、「せんせい」と俺の名を呼ぶ唇の形、少し熱っぽさを帯びて見上げてくる瞳。


それでも、昔のように絶対に依存しない、と心に刻む。
隣に並んで立てるように。
その為に、煙草を止めた。
そして彼女のくれたこの甘さに誓う。


もうすぐ下校時間だ。
もしかしたら、日野が帰る前に音楽準備室に顔を出すかもしれない、と期待して屋上を後にした。









<あとがき>
煙草っていうより飴玉の話ですね…。
金澤先生左利きらしいですね(汗)




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