「失礼しまーす…」
放課後の音楽準備室。
金澤先生にヴァイオリンを聴いてもらおうと、ここにやってきたのはいつものことだ。
そっと、扉を開く。
ただ、今日はなんだかいつもと少し違った。


いつもなら、ああ、また来たのか、お前さんも物好きだなあっていうニュアンスで、ちょっと苦笑いしながら迎えてくれる先生が。


―机に顔を伏せて、眠っていた。




解放




半分くらい開け放たれた窓から、風が優しく吹いてカーテンを揺らす。
夕暮れ空の遠くから、下校する生徒の笑い声が小さく、聞こえた。
先生は、いつもの自分のデスクに突っ伏して眠っていた。
左手を枕に、左頬を下にして右手は机に置いている。
そっと近寄ると、小さな寝息が聞こえた。


…ふふ。無防備な先生って、可愛い!!
何だか特別なものを見たようで、嬉しくなって思わず先生の横顔を観察してしまう。
―意外とまつげが長いんだなあ。
あ、やっぱり手が大きい!!
…こうして改めて見ると、やっぱり男の人、なんだなあ………


―疲れているのかな。
この部屋にやってきて随分経つのに、全く起きる気配が無い。
そういえば、もうすぐテスト期間だ。
雑事に追われて忙しいのに、先生は文句一つ言わず毎日やって来る自分に付き合ってくれる。


…どうして?
どうして先生は、毎日私に付き合ってくれるの?


先生は、何も言ってくれない。
春のコンクールで、気持ちを伝えた時『今はまだ、言葉にしてはいけない』って言ってた。
いつならいいんだろう。卒業したら?
先生を想う気持ちは、日毎募るばかりなのに。
先生は、ただ、毎日やって来る私を受け入れ、演奏を聴いてくれるだけだ。


先生の後ろの窓から、不意に強い風が吹いて、彼の長い髪を揺らした。
頬に掛かる髪が、暗い影を落とす。
こんなに近くにいるのに、触れることさえ許されない。
…触れたい、触れられたい、それなのに。


ああ、そうか。
私は、先生の『特別』になりたいんだ。


「…せんせい、すきです」


一度口にした想いは、ただ、溢れるばかりで。
想いが、堰を切ったように流れ出す。


「せんせいが、す、き…すき、…大好き…なんです」


誰も聞いていない、行き場の無い想いは、風に乗ってそのまま流されていく。


「すきで、すきでどうしようもないんです…どうしてくれるんですか」
…いっそのこと、突き放してくれたら楽なのに。なんて、そんなこと言ったらこの卑怯な大人はそうするだろうか。
口が裂けても言えない。
結局、目の前で夢の中にいる、この人にどうしようもないくらい恋してる。


−一瞬躊躇して、それでも覚悟して。
いつの間にか溢れている涙を手の甲で無理やり拭って、扉の方へ歩き出す。
それでも、何も無かったような顔して来てしまうのだ、この部屋に。明日も。






扉が閉じた瞬間、金澤は机から顔を上げた。
痺れていない右手で、額に手をやり、はあーっとため息をついた。
「………カンベンしてくれよ」
額から、汗が流れている。
今、顔を見られたら恥ずかしいくらい真っ赤なのは自覚している。


…本当は、日野が近づいてきたあたりから起きていた。
ただ、あんまりにもこっちをじっと見つめているもんだから、思わず起きるのを躊躇したのだった。
「…あいつめ」
そのうち、この世の終わりみたいな告白してきやがって。
おかげで汗びっしょりだ。
寝たふりをするのが大変だった。


―自分でも卑怯だ、と思う。
本当は、嬉しくて、それでいて胸が苦しくて、泣いているあいつを抱き締めてやりたくて。
でもそんな意気地が無くて、結局見て見ない振りをしている。
あんな風に彼女を思い詰めさせているのは、俺だ。


立ち上がって、窓の前に立つと日の落ちて薄暗い空が見えた。
白衣のポケットから煙草を取り出して火を点ける。
肺にたっぷりと染み渡らせてから、宵闇の空に紫煙を吐き出した。
薄く空に架かる月を見上げて独白する。


「…どうしようか、どうして欲しい、………日野」


―答えなんて、本当はとうに決まっている。









<あとがき>
お題を見た時、やっぱり『解放』っていうと『先生と生徒』っていう関係からの解放かな?と思ったんですけど、あまりにもベタかな?と思ってこんなんなりました。時期的には無印のすぐ後です。ベタも好きですけど(笑)




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