「先生。コーヒー飲みますか?」
予想していた言葉とは全く違う言葉に思わず面食らった。




Hot chocolate




放課後、彼女がこの音楽準備室にやって来てから大分経つ。
いつものように、ヴァイオリンを弾いて、それを聴いて。
いつもなら、それが当たり前の穏やかな時間だ。
それなのに、今日は、何故か落ち着かない。
…そう。今日は世に言うヴァレンタインデーって奴だ。
その証拠に、実は自分のデスクの中には、行く先々で渡された女生徒からのチョコレートが大量に入っている。
日野がやってくる前に慌てて詰め込んだものだ。
別に、チョコレートが欲しい訳ではない。
…いや、日野からのチョコレートだったら、欲しいけれども。…実は、かなり。
決して公に出来る関係ではないけれど、一応想いを確認し合った関係の女の子から、このヴァレンタインという日にチョコレートを期待してしまうのは悲しい男の性で。
いつその時が訪れるのだろうか、実は彼女がこの部屋にやって来た時から緊張していたのだ。
大人なんだからなるべく平静を装おう、なんて決意は既に遠くに去った。
なかなかやって来ない『その時』に、実はもらえないんじゃないか、俺の独りよがりだったのではないか、なんていう考えまで頭をもたげてきた。
やっと練習が終わって、彼女がヴァイオリンを片付けてからこちらを見て発した第一声がそれだった。


「あ?…ああ、じゃ、頼む」
はい、わかりました、なんてにこりと笑い掛けてから給湯室の方へ消えた。
見えないのを良いことに、思わず机に肘をついて頭を抱える。
―何やってるんだ、俺。これじゃあ期待しているのがバレバレだろうが!!
…いつからこんな風になったのだろう。
彼女に想いを伝えられてから、いや、彼女を好きだ、と認識した日からずっとこうなのだ。
口にしなくても、自分の想いは彼女にきっと伝わっているだろう、とずっと思っていた。
それなのに、その関係は酷く曖昧で。
そうさせているのは、それを彼女に強いているのは自分なのに、それが酷くもどかしい。
彼女の好意の上に胡坐を掻いて座っている。
それが自分をより一層辛くさせていた。
…彼女は、こんな自分に呆れてしまったのだろうか。


「先生、出来ましたよ」
その声に顔を上げる。
ことり、といつも俺が使っているカップを机の上に置いた。
カップからは湯気が立ち上る。
「うん…?お前さんは飲まないのか?」
カップが一つしかないことを疑問に思って尋ねると、彼女は床の上に置いてあったヴァイオリンケースを持ち上げた。
「…私は今日はこれで失礼します。先生、また明日」
そう言うと、慌てたように片手を振って準備室を出て行った。
彼女が出て行った扉を見つめて、はーっと深いため息を吐いた。
…我ながら情けない。こんなことで落ち込むとは。
気を取り直して、カップを持ち上げて口元に近づける。
…ふと違和感に気付いて、その中身を少しすすった。


思わず火照る、顔の熱を逃がすように額に手の甲を当てた。
「…あいつ…大人をからかって楽しいのか…全く」
口の中に、広がるカカオの深い香り。
これはコーヒーじゃない。ホットチョコレートだ。
どこまでも、甘い香りが広がる。
温かくて、心の奥から気持ちが湧き上がってくる。


「全く。…あいつ、どんな顔してこれ淹れたのか」
ふわり、と笑うとカカオの香りが鼻をくすぐった。
たまには甘い甘い、ホットチョコレートも良いな、と思う。









<あとがき>
ヴァレンタインなのに、先生がへたれですみません…。





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