「これからは君の事を、香穂子と呼ばせてもらおう。」
「…はい?」




Please call my name.(ver.吉羅)




今日のランチはパスタにしよう、くらいの気軽さで発せられた言葉に、思わず運転席の吉羅を凝視した。
星奏学院理事長の吉羅とは、一時対立した時もあったが、何度か食事に誘われ、一緒の時を過ごすうちに親密になった。
日曜日の今日も、ディナーに誘われ吉羅の車で香穂子の家に迎えに来てもらい、郊外のフレンチレストランに向かうところだった。


「何か支障があるかね?」
自分はよほど間抜けな顔をしていたのだろうか、吉羅はハンドルを握ったまま、横目で香穂子を一瞥して言った。
慌てて吉羅から視線をそらし、フロントガラスに映る夕方の街並に目を移す。
「…でも、理事長が一生徒である私を名前で呼んだらマズイんじゃ…」
香穂子は、星奏学院の生徒だ。
それを理事長である吉羅が名前で呼んだりしたら、教育的にも、学院的にも一生徒を特別視しているということで問題になるに違いない。
「もちろん、二人きりの時だけにさせてもらう。…別に私は知られてもかまわないのだがね」
「え?どうしてですか?吉羅さんの立場が…」
「知られても知られなくても、中傷やいわれのないスキャンダルなどで足を引っ張る連中はいくらでもいる。私はこれまでにそういう事態を何度も回避してきたし、それだけの力を蓄えてきたつもりだ」
目の前の信号が黄色になり、車が滑るように停止する。
吉羅は助手席の香穂子の顔を覗き込んで、息がかかるくらい近くに顔を寄せてささやいた。


「…君さえ良ければ、責任を取らせてもらってもかまわないのだがね」


一瞬、呼吸が止まりそうになる。
胸が早鐘を打ったように鼓動する。
あまりの胸の苦しさに何も言えずにいると、吉羅が何事も無かったかのように前を向いた。
信号が青になったのだ。
車がゆっくりと動き出す。
さっきの言葉が、まるで無かったかのように吉羅は車のハンドルを右に切った。
自分一人ドキドキして、なんだか恥ずかしい…。
吉羅に比べたら自分はまだまだ子供だ。
…もしかしたら、からかわれてるのかもしれない。
まだ鼓動の早い心臓を、上等な革張りのシートに身を沈め落ち着けたのだった。




森の中にある郊外のレストランは、別荘のようにひっそりと建ち、それでいて高級感あふれていた。
天井から下がるゴージャスなシャンデリア。
装飾の凝ったテーブルとチェア。
店内は照明が落とされ、キャンドルの光が幻想的な雰囲気を醸し出している。
客はほとんどが吉羅と同じくらいの年齢か、それより上の落ち着いた男女。
服装もおそらくブランドとわかる、とびきり上等のものだ。
何だか、自分は浮いていると香穂子は思った。
お気に入りのチェックのミニスカートだって、ひどく子供っぽく見える。


料理が運ばれてきたが、慣れないテーブルマナーに苦心して味など全然分からない。
相向かいの席に座った吉羅は、慣れた手つきでステーキを切り分け、口元へと運ぶ。
吉羅に食事に誘われた時は、いつもこんな感じだ。
自分がいかに子供か思い知らされる。
「どうしたのかね?口に合わなかったかな?」
食事の手が止まった香穂子の顔を吉羅が覗き込む。
香穂子はあせって顔の前で両手を振った。
「いいえ!すごくおいしいです」
「そうか、それは良かった」
照れ隠しに、程よい加減で焼けたステーキにぎこちない手つきでナイフを入れる。
吉羅は目を少しだけすがめると、炭酸水の入ったグラスを傾けた。


「先程の話だが。私のことも暁彦、と呼んでもらいたい」


…今、何て?
香穂子は苦心して切り分けたステーキを、思わずフォークから落とした。
「…え?」
「もちろん、二人きりの時でかまわない。…呼んでみてくれないか、暁彦と」
…吉羅さんを?暁彦…さんて…。


ちょっと待ってよー!!
心の準備が…。
さっきの車の中での鼓動がまた戻ってくる。
思わず吉羅を見つめると、まともに視線がぶつかった。
…そのまま見つめ合って、1秒、2秒。
吉羅が何か言おうと、口を開きかけた瞬間だった。


「失礼、吉羅理事長ではありませんか?」


声のした方を見ると、そこには40代くらいの人の良さそうなスーツ姿の中年男性が立っていた。
「佐々木商事の高橋です。こんな所でお会いするとは、奇遇ですね。今度、学院の方に伺わせて頂こうと思っていたところなのですよ。」
男性は、親しげな笑顔を浮かべると、こちらに近寄ってきた。
「失礼。今はプライベートな時間なのでね」
吉羅が眉をひそめて硬い声で言う。
「これは申し訳ありません。私はこれで失礼致します。また改めてご挨拶に伺わせて頂きます」
男性は一礼すると、エントランスの方に歩いていった。


「…いいんですか?」
香穂子がためらいがちに言うと、吉羅は目をすがめて言った。
「今は君以上に大切な用事はない」
その言葉に、落ち着きかけた鼓動が戻ってくる。
香穂子は慌てて立ち上がった。
「あのっ、ちょっと失礼します!」
そのまま吉羅の方を見ずに化粧室に飛び込む。
…助かった、と思った。
別に吉羅のことは嫌いではない。
むしろ、好き…なのだと思う。
でも、吉羅が心を寄せてくれればくれる程、あまりに自分の幼さを認識させられ不安になってしまうのだ。


その後、他愛も無い会話をして食事を終え、家まで送ってもらった。
吉羅は名前のことは帰りの車の中でも一切口にしなかった。
そのことが香穂子を少し不安にさせたのだった。






次の日の放課後。
香穂子は昨日の車の中で、放課後応接室に来るように言われていた。
昨日の不安が拭いきれず、そっと祈るような気持ちで応接室のドアを開く。


…そこに吉羅はいた。
まるで数ヶ月前の再現だった。
吉羅は長い足をソファに投げ出し、肘かけに組んだ足を置いて眠っていた。


長いまつげ。
整った鼻、唇。
軽く寝息をたてる吉羅の顔はあの時と何も変わっていない。
…でも、今は違う。


その瞳で私を見つめて。
その唇が私の名前を呼ぶ。
それだけで、温かい幸福感が私の心を包み込む。
それと同時に、胸を締め付けるような甘い痛み。
あの時は吉羅とこんな風になるなんて、想像もつかなかった。
でも、こんな幸福感と痛みをくれる吉羅に出会えたことに感謝している。
たとえ幼いと言われても。
吉羅が気まぐれで付き合ってくれているのだとしても。


…そういえば、こんな風に吉羅をじっくり見つめるのは初めてかもしれない。
吉羅に見つめられる度にドキドキして視線をそらしてしまうからだ。
疲れてるのかな?
吉羅は全然起きる気配がない。
今日はこのまま起こさないで帰ろう。
そう思った香穂子は、コート掛けにかかっていたコートをはずし、起こさないように吉羅にそっとかけた。


ふと思いついて、言ってみる。


「おやすみなさい、暁彦さん」


口に出した瞬間、顔から火が出るように熱くなった。
…やっぱり、本人に向かって言うのは無理だよ。恥ずかしい…。
その場から逃げるように応接室の扉の方を振り向き、歩き出そうとした瞬間。


強い力で左手を引っ張られる。
「きゃっ!?」
香穂子はバランスを崩し、勢いあまって吉羅の上に倒れこんだ。
「やっと名前を呼んでくれたね」
頭の上から香穂子の好きな低い声がする。
「吉羅さん!?いつから起きて…」
「君がこの部屋に入ってきてから。ずっと黙って私の方を見つめているから、面白くてつい…ね」
少し笑いを含んだ声で吉羅が言う。
香穂子はソファの上に横たわる吉羅に、乗りかかるような形で抱き締められていた。
筋肉の引き締まった胸の上に、顔をうずめている。
体を起こそうと肩に力を込めるが、吉羅の力強い腕はびくともしない。
「あっ…悪趣味です!!狸寝入りなんて」
「それは申し訳ない。でも、たまには子供じみたこともしてみるものだな。君に名前を呼んでもらえたのだから」
香穂子を抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなったように思えた。
吉羅の頭は香穂子の頭上にあるため、表情は伺い知れない。
「…少し不安でもあった。私は君より大分年上だしね。君くらいの歳の女性が興味のあることが分からないんだ。だからいつも私につき合わせてしまう。…君に無理をさせているのではないか、私といても楽しめないのではないかと」
香穂子は驚いた。
吉羅も同じだったのだ。
自分といても楽しくないのではないか、無理に合わせているのではないかと…。
「そんなことないです!!吉羅さんといるとすごく楽しいです!!今まで行ったことがないような場所に連れて行ってもらえるし、それに…」
「それに?」
「…吉羅さんといると、心があったかくなったり、胸が苦しくなったり。今まで経験したことがない気持ちをくれるから…退屈してる時間なんて、ないんです」


吉羅は優しく香穂子の髪をなでる。
「少しは期待してもいいのかな?…君に好意を持たれていると」
香穂子は小さく頷いた。
吉羅の手があまりにも優しくて、思わずここが星奏学院の応接室であることを忘れそうになった香穂子は慌てて言った。
「とにかく、とりあえず離して下さい」
香穂子が言うと、吉羅は楽しそうな声で言った。


「もう一度、名前で呼んだら離してあげよう」









<あとがき>
吉羅理事長で、もし名前呼びイベントがあったら…と妄想してこの話を書きました。
金澤先生ページに同タイトルのお話がありますが、この話と対比しています(もちろん単体でも読めます)。
強引に名前を呼んでくるのが吉羅理事長、呼んで欲しいのに呼んでくれない金澤先生、みたいな。
この話はアンコール発売前に書きました。もちろん捏造なので、その辺ご了承下さい。




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