いつも、面倒ごとを押し付けられるのは私で。
それを不満に思っていても、いつの間にかそれが私を成長させる糧となっていたりして。
憎まれ口を叩いていても、本当は感謝をしているんです、理事長。


でも、でもね、ほんのちょっとだけ。
『良くやってくれた』とか『ありがとう』なんて言葉はいらないから。
ただ、ちょっとだけこっちを向いて欲しい。
その心を、開いて欲しい。


…そう思うのは、私のわがままですか。




Open your heart




「…君は、私の前に来る時はいつも仏頂面だな」
呼び出された理事長室で、机の上で指を組んで私を見上げる彼は開口一番そう言った。
…仏頂面にもなってしまう、だって今度はどんな課題を与えられるのか。
クリスマスのコンサート、オーケストラ、彼が私をこんな風に理事長室に呼び出すのは、決まって何か面倒ごとを押し付ける時だ。
警戒して、眉間に皺が寄っていたのだろう、彼の第一声はそんなだった。


次の言葉を待っていた私の思惑とは裏腹に、理事長はしばらく私をじっと見つめた。
…?
なんだろう?理事長が用件をさっさと言わないなんて、とても珍しいことだ。
―まさか、またとんでもなく難しい課題なんじゃ…!!
思わず身構えた私に、降ってきた依頼は意外なものだった。
「今度の土曜日、何か予定は入っているかね」
「―いえ、何もありませんけど…」
「では、駅前に18時だ。車で迎えに行く」
「………は?」
―ちょっと待って下さい、話が見えないんですけど!!
「その日、市民ホールでオーケストラコンサートが開催されるんだがね。君も音楽家を目指すなら、聴いておいて損はないだろう」
―は、い―?
「…それってつまり、理事長とオーケストラコンサートを聴きに行く、ってことですか…?」
「君の聞き間違いでなければ、そうだな」
…ああ、もうこの人は!!
どうしてそんな回りくどい言い方するかな!!
「ちょ、ちょっと待って下さい!!いきなりそんな…」
「だから最初に予定を聞いたのだがね。それとも何か支障が?」
そこでぐっと、返事に詰まる。
「…いえ、別に無いですけど…」
「では決まりだな。用件は以上だ。戻ってくれて良い」
彼はそう言うと、もう興味が無くなったように手近にあった書類を手に取った。


…ちょっと、ひどくないですか?
いきなり呼び出して、自分勝手に予定を押し付けるなんて。
―理事長にとって私って一体何なんですか。
ただの生徒ですか。学園再建のための道具ですか。
道具だったら、どんな命令をしてもいいんですか。
―どうして、そんな命令をするんですか。
…駄目だ。考えがぐるぐるしてちっともまとまらない。
目の前のこの人の考えが読めない。
こんなに近くにいるのに。
誘ってもらって、本当は嬉しいはずなのに。
私、素直に喜んでいいの?それとも、利用されてるって怒っていいの?
…息が苦しい。
どうしたらいのか、分からない。
嬉しいのか、苦しいのか。
―ちっとも分からない。


いつまで経っても、俯いたまま動かない私を不思議に思ったのか、理事長は書類から視線を上げて私を見た。
「―どうし」
赤みがかった瞳が見開かれる。
―なんでそんな顔をするんだろう、と頬に手をやると、いつの間にか目から大粒の涙が流れていた。
理事長の前で涙を流してしまった。
―何でそこで泣くんだって思われてるに違いない。
あまりの恥ずかしさに、思考が混乱する。
早くこの場から逃げ出したくて、私は思わぬ言葉を吐いた。


「…行きませんから!私!!ぜったい、行きません!!」


一気に言うと、彼の顔も見ずに理事長室を飛び出した。
そのまま、廊下を走る。
理事長室のある階の廊下は、職員室や応接室などが混在しているせいか歩いている生徒は一人も居なかった。
誰も居ないことを幸いに、廊下を全速力で走り抜ける。
昇降口までやって来たところで、息が切れて歩き出す。
そのまま、森の広場にやってきてしまった。
―何で、あんなこと言っちゃったんだろう。
きっと、理事長は不審に思っているに違いない。
そんなに嫌なら、他に用があるのを思い出した、とかやんわり断る事だって出来たはず。
あんな風に逃げ出すなんて、子供のやることだ。
―そういうのは、きっと理事長が一番嫌がることだ。
…呆れられちゃったかもしれない。もう誘ってもらえないかも。
そんな風に思うと、一度止まった涙が思わず零れた。


―どうして?
これで、利用されてるのか、そうじゃないのか悩む必要が無くなるじゃない。喜んでいいはずでしょ。
―それなのに。
涙が、拭っても、拭っても後から溢れてくる。
初めは、学院再建のための手段、としてしか見られてなくても良かった。
…でも、段々それじゃ、嫌になった。
側にいればいる程、彼を知れば知る程、好きになった。
―私を、一人の女の子として見て欲しい。
一度そう思ってしまったから、もうそんな風に扱われるのが苦しくなった。
…ねえ、理事長。
こんな私は、あなたにとってもう必要のない人間ですか―?






その日の放課後の帰り道。
とぼとぼと歩く道の先に、見慣れたイタリア製の赤いスポーツカーを視界にとらえた瞬間、胸が高鳴った。
…どうして?
思わず足を踏み出しかけて、そこで止まる。
…そこに、理事長はいた。
こちらに背を向けて、停車している車の側に立っている。
彼の前には、冬海ちゃん。
恥ずかしそうに俯いた瞬間、でも少し微笑んでいる。
二人は、何か会話をしているようだった。


…ああ、そっか。
思わず、ぎゅっと手を握る。
冬海ちゃんなら、かわいいし、人気あるし、演奏も上手だし、きっといい学院の宣伝になる。
それに見合う、実力だってある。
―私、見放されちゃったんだ…
そう思った瞬間、胸の奥がぐっと熱くなった。
視界がぐらり、と歪む。


「…日野、せんぱい…?」
その声に、我に返る。
冬海ちゃんが、こちらに気付いて声を掛けたらしい。
その声で、理事長が私の方を振り向いた。
胸がどくどくうるさく音を立てるのを、必死にこらえて笑顔を作る。
「あ、ああ、冬海ちゃん、今帰り?」
「日野先輩?大丈夫ですか?なんだか…」
そこで、自分が今にも泣きそうな顔をしているのに気付いた。
…いけない、ここにいちゃ。こんな姿二人に見られたくない―!!
「あ、あはは。え、えっと、わたし急いでいるのでこれでっ。じゃあ、また明日ね、冬海ちゃん!…理事長、さようなら!!」
理事長の顔を一回も見ずに大きく一礼して、その場を走り出す。
冬海ちゃんが何か声を掛けたけれど、気が付かない振りをしてそのまま走る。
…だって、これ以上あの場にいたくない。


―私、最低だ。
冬海ちゃんに嫉妬するなんて。
だって、あまりに二人がお似合いで。
外見も中身も本当のお嬢様の冬海ちゃんと、吉羅理事長。
何だか、私とは全然違う世界の人みたいで。
―私なんか、入り込む隙間がないみたいで。
ショックだった。
自分は、理事長から逃げ出すことしか出来なかったくせに。
勇気のない自分が、大嫌いだ。
そう思うと涙が溢れて、止まらなかった。






そして、土曜日。
結局、その後理事長に話すことはもちろん呼び出されることもなく、この日が来てしまった。
―約束は18時。
でも、自分は断ってしまった。
駅前に行っても理事長は現れないだろう。
―それなのに。
18時少し前には駅前にやってきてしまった。
どうしてだろう。
絶対に理事長は来ない、頭では分かっているのに。
無駄なことしてるって、ちゃんと分かってる。
それなのに。


―案の定、1時間待っても2時間待っても理事長は現れなかった。
―本当に、そろそろ帰ろう。
そう思って歩き出そうとした瞬間。
「君、さっきからずっとここで待ってるよね」
にこにこと、笑いながら一人の男性が近づく。
大学生くらいだろうか、近づいてくると酒の匂いが鼻を突く。
「…もう、帰るところですから」
言い放って歩き出そうとすると、ずっとそこに立っていたからか、うまく歩けなくて思わずよろける。
「おっと」
ぐっと、腕を掴まれる。
その力強さに、思わず頭の中で黄色信号が灯った。
「…すいません、大丈夫ですから」
振りほどこうとした腕を、がっちり掴まれていて振り解けない。
「ひどい彼氏だよね〜こんなかわいい娘をほっとくなんてさあ。どう?僕とカラオケでも行かない?」
「すいません、私もう帰るところですから」
…なかなか手を振り解けない。
黄色信号が赤信号に変わる。
「そんなこと言わないでさ〜今日合コンだったんだけど、女の子のお持ち帰りに失敗しちゃってさ〜君高校生?遊ぼうよ〜」
「本当に結構です!!」
おかしいと、周りの人は気付いているのに視線を寄越すだけで誰も声を掛けてくれない。
どうしよう。
腕が、痛い。
どうにかして、逃げようともがく。
でも、全然腕は離れない。
助けて、誰か。
―理事長!!


その時。
圧迫されていた腕が、急に解放された。
「―私が待ち合わせしていた者だが。何か―?」
…理事長が、私を掴んでいた男の腕をぎりぎりと締め上げている。
…どうして?
何故理事長がここにいるの?
冷たい、氷のような瞳で男を睨む。
その迫力に一気に酔いが覚めたのか、男は急におとなしくなると言った。
「い、いえ!!何でもないです!!」
理事長が掴んでいた腕を放すと、男はそそくさと逃げ出した。


―後には、気まずい沈黙が流れる。
沈黙に耐え切れなくて俯くと、上から声が降ってきた。
「…此処で何をしているのかね」
思わずビクッと震える。
…声が怒っている。
「君は此処には絶対に来ないと言った。それなのに、何故此処にいるのかね」
厳しい声に、思わず身を竦める。
―どうして、私いつもこうなんだろう。
子供っぽい行動で、理事長に迷惑かけて。
これじゃ、本当に嫌われても仕方ない。
涙が零れそうなのを必死に堪える。
ここで泣いたら絶対に駄目だ。
両手にこぶしをつくってぎゅっと握る。
理事長は、ふっとため息をつくと、言った。
「―とにかく、自宅まで送ろう。来なさい」
思わず顔を上げて、言う。
「私一人でも大丈夫です!!帰れます!!」
そこで初めて理事長と顔を合わせて、怒っている顔を間近で見る。
―心臓がどくんと跳ね上がった。
「―いいから」
そう言うと、私の腕を掴んだ。
「…いたっ…」
とっさだったのだろう、理事長が掴んだのはさっきの男が掴んだ所だったらしい。
理事長が腕を放す。
「見せてみなさい」
言われたとおりに服の袖を捲くると、そこは見事に手の形に腫れ上がっていた。
理事長は眉をひそめると、つぶやくように言った。


「………すまない」
…意外な言葉に、理事長の顔を見上げる。
「もっと早く私が来られればこんな思いをさせなかった。…すまない」


―どうして謝るの?
悪いのは、全部私なのに。
理事長の言うことをきかなくて、自分勝手な行動を起こして。
その上、迷惑をかけている。
悪いのは全部全部私。
なのに、どうしてそんなに優しい言葉をかけてくれるんですか、理事長。


その言葉に。
思わず涙が零れる。


―理事長は、何も言わず着ていたコートを脱いで私に掛けた。
そして、ぐいっと私の肩を抱いて歩き出す。
びっくりしたけど、その腕が、優しくて。
私は、俯いたままその腕に身を任せて歩き出した。






着いた先は、地下の駐車場だった。
見慣れた赤い車に乗り込むと、何も言わず車を発進させる。
そのまま、車はドラッグストアの駐車場へと滑り込んだ。
理事長は、数分店内に入ると何かの袋を抱えて戻って来た。
「腕を出したまえ」
その言葉に従うと、袋から湿布薬を取り出して、私の腕にぺたっと貼った。
「…つめたっ…」
「我慢したまえ」
そのままテープで湿布薬を固定する。
「…これで、腫れが引くのが少しは早いだろう」
腕を直に掴まれていて、私の胸はそれどころじゃなく高鳴った。
さっきの男の人とは違う、全然嫌じゃない。
―どうして、こんなに違うんだろう。
「―さて。聞かせてもらおうか。何故私から逃げたのかね?」
どくん、と心臓が高鳴る。
「この前も、その後の放課後でも君は私から逃げ出した。―何故かね?」
「…それは…」
―そんなこと言えない。
返事に詰まって俯いたままでいると、理事長は言った。
「そんなに嫌だったのかね。私に誘われるのが」
「―!!違います!!」
弾かれるように叫ぶ。
「嫌じゃないです!!むしろ嬉し―」
―言ってしまってから口元を押さえる。
理事長は、真剣な眼で私を見た。
腕は、まだ掴まれたままだ。
「嬉しかったのなら何故?私の誘いを断った?」
ぽつり、と話し出す。
「―私は…理事長の、何、ですか…?」
赤茶色の瞳が、大きく見開かれる。
「…学院再建のための道具―ですか?誘ってくれるのは、ビジネスだからですか?―私にそうやって投資すれば、学院の利益になるから…だから、私を誘ってくれたんですか?」
彼は、一拍おいた後、ふーっと呆れたように息を吐いた。
「…土曜日は、いくらでも他に仕事を入れられる。正直、君をコンサートに誘うより仕事を入れた方が現時点では確実に学院の利益になるのだがね」
「―じゃあ、どうして私を誘ってくれたんですか?…利益もないのに」


「―利益がなくては、誘ってはいけないのかね?」
見つめられて、どきりとする。
「…別に、いいですけど…」
思わずぐっと身を引くと、理事長は悪戯っぽく目をすがめた。
「つまり君は、自分が学院再建の道具だから誘われていると思って、拗ねていたわけだね」
「…なっ!!」
自分の顔が赤いのを認識する。
「違うのかね?」
「〜〜〜ち、違わないですけど!!もう少し言い方ってものが…!!」
「…本当に君は。強気なのに良く泣くし、すぐ怒るし、一人で勝手に決め付ける。本当に飽きないな」
ふっと笑うと、そっと私の手を離した。
少し残念で、掴まれていた腕を見つめる。
理事長は、車をそっと発進させた。
「しかし君は…私をそんな風に思っていたのかね。少し心外だな」
「だって、理事長が命令口調で私を誘うから…」
思わず愚痴る。
「私は、興味の無い人間に時間を割くほど、暇ではない。
この間の放課後も、君と仲の良い女生徒に君の帰り道を聞いてまで待っていたのに、さっさと逃げるから時間を無駄にしてしまった」
―私のため?
この前冬海ちゃんといたのも、私を待つために―
…どうしよう。すごく嬉しい。
思わず顔が赤くなるのを堪えられない。
「では、今日は何故私が来ないのが分かっているのにあの場所に居たのかね?」
問われて、声が出ない。
―言えるわけない、そんなの。未練がましすぎる。
「実際私も、何故か君があそこにいるような気がして、来てしまったのだがね」
理事長の言葉に、思わず彼の横顔を見る。
「―そうしたら、男に絡まれている君を見つけて、無性に腹が立った。…自分にね」
…こんなに優しい理事長は、夢じゃないかと思う。
でも、掴まれていた腕はまだ温かくて。
「明日もコンサートがあるのだが。どうかね?」
「…行きます」
「では、駅前に18時に」


今度は本当に、心から嬉しいと思える。
だから、少し勇気を出して聞いてみる。
「―さっきの言葉、『興味の無い人間に時間を割くほど暇じゃない』それって、私のこと、少しは興味を持ってもらってるって思ってもいいんですか?」
「…そうだな。貴重な休日に、時間を割く程度には、ね」
「………」


―やっぱり、むかつく。
その言い方、余裕たっぷりで。
私の気持ちなんか、はなから見透かしているんじゃないかと思ってしまう。
いつも、私よりずっと先を歩いていて。
歳の差なんか、一生かかったって埋められないのに。


「明日は、少し帰りが遅くなっても大丈夫かね?君が好みそうなイタリアンの店を見つけたのだが…」


―でも、今はこれでもいいや。
少なくとも、誘ってもらえなくなるよりはよっぽど良い。
貴重な時間を私に割いてくれる。
私を探しに来てくれる。
それだけで。


「―理事長?」
「なんだね」
「今日のことと…この前のこと、すいませんでした。…でも、来てくれて、すごく嬉しかったです」


―でも、いつかぎゃふんと言わせてやるんだから。
この冷静な理事長の表情をいつか崩してやろう、と私は心に固く誓ったのだった。










<あとがき>
恋人未満生徒以上って感じですかね。
理事長は、必要以上に甘くしちゃうと私の筆力ではキャラが崩壊してしまうので、難しいです。




close