有名なヴァイオリニスト




今日も遅くなりそうだ。
一つため息をついて、吉羅は革張りのチェアに身を沈めた。
…少しオーバーワークかもしれない。
軽い頭痛を覚え、こめかみに手をあてる。
初春の暖かな西日が理事長室に差し込む。
時刻はもうすぐ下校時間をまわろうとしていた。
そういえば、最近ではこの理事長室で日付を超えることもしばしばだ。
学院の経営も上向きになってきたとはいえ、まだまだ油断は出来ない。
…少し、外の空気でも吸いに行くとしよう。
吉羅は、大量の書類の残る理事長室を後にした。


屋上へ上がる廊下の途中、3階の窓から何の気なしに外を眺める。
季節はもうすぐ春。
桜のつぼみもそろそろ膨らみ始めようとする季節だ。
部活動時間も終了し、下校する数人の生徒の姿が見える。
そうしているうちに、無意識に赤い髪の少女を目で探していたことに、気付いて愕然とした。
何をやっているんだ、私は。
中学生じゃあるまいし…。
これも、疲れている証拠なのかもしれない、と無理やり自分を納得させる。
そんな他愛もないことを思案しているうちに屋上の扉の前にたどり着く。
疲れた体を預けるように、屋上への重い扉を開いた。


…西日のちょうど逆光に当たっていたのからかもしれない。
飛び込んでくる音楽。
ヴァイオリンを奏でるその後姿は、とても神々しく見えて。
夕日が、髪に透けてきらきらとその姿を輝かせている。
無心にヴァイオリンを弾く姿は、まるで女神のようで。
…ああ、これが音楽に愛されたものか。
そして遠い日の、もういない彼女の姿を思い出す。


不意に演奏が止んだところで吉羅は我に返る。
それと同時に、彼女も私に気付いたようだった。
「あ、理事長!!」
彼女は慌てて軽く一礼する。
「…そろそろ下校時間だ。帰りなさい」
彼女に近づき、動揺した自分を悟られないよう少し強い口調でそんなことを言う。
彼女は全く気付いてないようだった。
「はい、すみません。でも、もうちょっとだけ練習させて下さい」
「…オーケストラコンサートも成功したのに、何故そんなに根を詰めて練習するのかね?」
彼女は、何をそんな不思議なことを言うのだろう、という顔で私に告げた。
「何のために、とかそういうことはないです。…ただ」
「ただ?」


「…ヴァイオリンが好きだから」
そう言って鮮やかに笑う。
遠い日の、あの人と同じ笑顔で。


「…あまり遅くならないように」
一言そう告げると、背を向けて歩き出す。
「はい!ありがとうございます!」
背中に放たれた彼女の言葉。
屋上の扉を閉める直前、またヴァイオリンの音色が聴こえてきた。
…音楽に愛されたものか。
それは純然たる音楽への愛情。
彼女にあるもの、あの人にあったもの。
それは吉羅を漠然とした不安にさせた。






一通りの書類を片付ける頃には、もうすっかり夜だった。
他の職員はもういない時間だろう。
それでも、いつもの帰宅時間よりは大分早い。
屋上で彼女と会ってからまだ数時間しか経っていなかった。
吉羅は、愛車のキーを手に持つと立ち上がった。


…特に何を感じたわけでもない。
ほんの気まぐれとしかいいようがない。
吉羅は、何の気なしに彼女と会った屋上へ歩を進めた。


屋上の扉を開くと、春といえどまだ少し肌寒い空気が体を支配した。
そこに彼女の姿はなかった。
が。
…まさか。
数時間前、彼女が使っていた楽譜立てが同じように同じ場所でたたずんでいる。
その瞬間、弾かれたように屋上の奥へと歩を進める。
思わず絶句。
そこには。
楽譜立てのすぐそばのベンチに、丸くなって眠る少女の姿があった。
軽く寝息を立てて眠る彼女。
吉羅は呆れると同時に少し怒りを覚えた。
…全く、いくら春といえども、風もまだ少し冷たいのに風邪でもひいたら元も子もないだろう。
どう起こそう、と思案していると楽譜立てに立てられた楽譜に目がいった。
そこには数時間前には無かった無数の書き込みがあった。
あれからずっと練習していたのだろう。


−ヴァイオリンが、好きだから。
彼女の言葉が不意に蘇る。
吉羅は少し思案した後、自分のスーツの上着を脱ぐと、香穂子にそっとかけた。
上着は、丸くなって眠る彼女の体をすっぽりと覆ってしまう。
それほどまでに彼女の体は小さく、頼りない。
しゃがみこんで、眠る香穂子に顔を寄せる。
起きる気配は全くない。
そっと、手で彼女の頬に触れる。
…暖かい。
血が通っている、この手からはまた新しい音楽を生み出すことが出来る。
その音楽は、吉羅を、彼女を取り巻く多くの人達を変えた。
それは彼女にしか、彼女の生み出す音楽にしか出来なかったことだ。
だからこそ、自分を大事にして欲しい。
「…そんなことを言っても、君は全く聞く耳を持たないのだろうがね…」
独白するとジャケットごと、そっと彼女の体を抱き上げた。




香穂子は、夢を見ていた。
今まではまるで北国にいたように寒かったのに。
今は、すごく暖かい。
かすかに漂うコロンの香り。
心地よく、体を揺らすリズム。
何か、暖かく大きなものに包まれるのを感じながら、至福の眠りについていたのだった。




そっと、体が何かに降ろされるのを感じて、そこでやっと目が覚めた。
…意識が、まだぼんやりとしか覚醒しない。
しかし、香穂子は周囲の異常に気付いた。
そこには空があるはずが、眼前にはグレーの天井が迫っている。
屋上のベンチに座って譜読みをしていたはずなのに。
まるで、誰かの車の中にいるようだ。
…私、寝ちゃってた!?
思わず飛び起きて左右を見渡す。
「やっと起きたのかね」
…そこには、自分のすぐ左側にいる、吉羅の姿。
携帯を確認し、閉じると車内のダッシュボードの中に放り込んだ。
上着は自分にかけられている。
そこでやっと、吉羅の車の助手席に座らされているのだと気付く。
その近さに、思わず体を引く。
「あ、あの…」
「荷物はトランクに積んである。楽譜立ては音楽室に返しておいた−他に質問は?」
畳み掛けるように、吉羅が車のエンジンを始動させながら言う。
今までこちらを一度も見ていない。
その勢いに押されて香穂子はためらいがちに言った。
「…もしかして、理事長が私をここまで運んで下さったのですか?」


そこで初めて香穂子を見た。
−凍るような眼差しに、一瞬息が止まる。
不意に、吉羅の左手が目の前に伸びる。
「…!?」
吉羅は体を反転させて、香穂子に覆いかぶさるように左手を彼女の右側にある窓ガラスに置いた。
体重を預けて置いているので、体は触れてはいない。
−が。
顔が近い。
息のかかる近さで、吉羅は言った。

「君が自分で歩いてきて、この車に乗ったのではないのなら、そうだな」

そう言うと香穂子のシートベルトを勢い良く引いて、装着した。
そこで、直前の行為は香穂子のシートベルトを締めるためにしたのだと気付く。
なんの躊躇も無く、ギアをチェンジし車を発進させる。


赤くなっている香穂子を知ってか知らずか、吉羅はそ知らぬ顔で運転している。
−もしかして、からかわれた?
憮然として言う。
「…どこ行くんですか?私、帰らなくちゃ…」
吉羅は、香穂子の言葉を遮るように言った。
「言ったはずだが。健康管理を怠らないこともヴァイオリニストの義務だと」
我に返る。
からかわれたんじゃない。
もしかして…怒ってる?
「君は無理をし過ぎる傾向がある。屋上で仮眠をとっても大丈夫だと思っているのだろうが、いくら君でも自分の体の丈夫さを過信しないことだ」
言葉は厳しくとも、心配してくれていることは伝わってくる。
彼は、自分の体を大事にしない私に怒っているのだ。
運んでくれている時の、手の暖かさ。
そっと体を置いたときの、優しさ。
ちゃんと、覚えている。


赤信号で車が止まる。
「理事長」
彼女が微笑む。
「心配かけてすみませんでした。あと−ありがとうございました」
−そんな風に私を見るから。
君を、このまま帰したくなくなる。
今の今まで体を休ませるために家まで送ろうと思っていたのに。


「ちょうどいい。夕食に付き合いなさい。…そうだな、今日は銀座で寿司にでもしよう」
「え!?そんな高いんじゃ…」
片目をすがめて、言う。
「有名なヴァイオリニストになって私に返してくれたまえ…ま、期待はしないがね」
納得いかない顔をした彼女を横目で一瞥する。
その指で。
素晴らしい演奏をしてみせたかと思えば、ちょっとしたことで感情的になったり。
その顔で。
大人びた表情を浮かべたと思えば、子供っぽいことをしてみせたり。
本当に飽きない。
せいぜい「有名なヴァイオリニスト」になるまで私を楽しませてもらおうか。
…それまでも、そうなったとしても。
彼女からは離れられそうにない、ことはとうに気が付いていた。









「吉羅暁彦生誕祝い企画」様に投稿させていただいた小説です。
初めてのお題挑戦で難しかったです。




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