何の約束もせずに別れた。
全ての答えはヴァイオリンにある。
俺と、君を繋ぐ全ての道もこの先に繋がっていると信じることが出来たから…。


また会おうと、君は言った。




その道の先で




ウィーンの冬は長く、寒い。
3月に入ったというのに、凍るような寒さが続いている。
春休みに入った今日は、レッスンも外出の予定もなく、久しぶりにアパートの自室で溜まった日々の雑用をこなしていた。


…成長したのものだな。
今では洗濯も、掃除も、簡単な食事の支度だって難なくこなせる。
ふと、以前コンクールメンバーと合宿したことを思い出した。
…あの時は、電子レンジもうまく使えなくて、昼食を台無しにしてしまったな。
あっけにとられた土浦の表情を思い出し、なんとなく笑みがこぼれる。
そして、また思い出す。
…あの時、彼女と奏でた二重奏を…。


ウィーンに渡ってから、4年の歳月が過ぎた。
その間、一度も日本に帰ってはいない。
日々のスケジュールに追われ、貪欲に本場の音楽を吸収していくうちに、自分の未熟さを痛感させられた。
決して自分を過大評価していた訳ではない。
だが、こちらに来てからは日々驚くことばかりだ。
世界中から集まった留学生の演奏、レッスンに求められる演奏の質の高さ。
自主レッスンの合間に足しげくコンサートやオペラにも通った。
まだまだ、自分に足りないもの、勉強したいことはたくさんある。
日々の生活に追われるにつけ、香穂子への連絡も段々と途絶えがちになっていってしまった。
最初の頃は、手紙も、メールも、時々だが電話もしていた。
しかし、学校が始まり忙しくなってくるとメールを送ることさえ少なくなっていってしまっていた。
その頃になると、音楽科に転科して忙しくなってしまったのか、彼女からの連絡も途切れがちだった。
…そして、音信不通になって1年が経とうとしている。


ふと思いついて、クローゼットの奥からシューズボックスくらいのクラフトで出来た箱を取り出した。
重要な書類、大事な物を入れておいている箱だ。
壊れ物を扱うように、そっとふたを開ける。
…金色の砂の砂時計。
高校2年の時、バレンタインに香穂子がくれたものだ。
そっと取り出し、砂の溜まっている方を上にして机の上に置いた。


…さらさら。
金色の砂が、ゆっくりと下方へ流れ落ちる。


忘れていた訳ではないんだ。
…むしろ、考えないようにしていた…?


約束なんて何一つ出来なかった。
いつ帰るとも、待っていて欲しい、とも。
出来る訳はない。
自分はまだまだ勉強中の身だ。
音楽で身を立てていく確証も自信も何も無い。
何より、香穂子だって一人の演奏家だ。
彼女の可能性を狭める約束なんて出来ない。
それに、これから将来どうしていくかなんて彼女の自由だし、彼女自身の成長を楽しみに思っている部分もある。


…本当は確かめるのが怖かった。
香穂子はまだヴァイオリンを続けていてくれているだろうか…?
ヴァイオリンを弾く度に彼女を思い出す。
それが唯一、自分と彼女を繋ぐものだから。
…もし彼女がヴァイオリンを辞めていたら…?
自分と同じように、海外に来なくてもいい。
音楽で身を立てようと考えていなくてもかまわない。
ただ、ヴァイオリンだけは。
ヴァイオリンを弾くことだけは辞めないで欲しい。
…勝手な願いであることは十分分かっていた。
だから、確かめるのが怖かった。


…さらさら。
砂時計は、こうしている間もあいまいな時を刻む。


その時。
インターホンが鳴った。
玄関へ行き、ドアを開けるとアパートの管理人がいつもの人の良さそうな笑顔で立っていた。
「レンに日本からエアメールよ。ガールフレンドだといいわね〜」
…思わず心臓が早鐘を打つ。
差出人を見るとそこには「Nami Amou」の文字があった。




管理人に礼を言い、ドアを閉めると封筒の端をはさみで切って開ける。
そこには一枚の便箋と、MDが入っていた。
便箋には、短い言葉が一行。


「月森蓮の甲斐性無し」


…少し面食らいつつ、オーディオにMDを挿入し、再生ボタンを押した。


そこには。
確かに彼女がいた。




俺は、パスポートと財布、それに必要なものをショルダーバッグに詰め込むと、最後にコートをつかんで部屋から飛び出した。
一瞬、机の上の砂時計に目をやる。


…砂は、もう下方に落ちきっていた。


アパートの入り口で、管理人にすれ違いざま、しばらく部屋を留守にする旨を早口に告げる。
驚いた管理人は何か言おうとしたが、俺はかまわず走り出す。
今からなら飛行機の最終便に間に合うはずだ。


俺は馬鹿だ。
例え彼女がヴァイオリンを続けていなくても。
彼女を想う気持ちに変わりは無い。






−空港行きの列車に飛び乗る。
シートに座り、ゆっくりと息を吐き出した。


離れるのが分かっているのに、一緒にいることは彼女の為にならないのではないか、と考えたこともあった。
自分の我がままではないか。
それ自体、無意味なことでは無いかと。
それでも、彼女は俺を受け入れてくれた。
…残るものは、意味は確かにあった。
この心に。


日本を離れる直前、彼女と屋上で奏でた「愛のあいさつ」の二重奏。
俺は、確かに彼女から最高の贈り物をもらった。
心が想いを歌にして歌うこと。
ヴァイオリンを奏でる度に、俺は彼女を感じられることを。


駅に着いた列車から飛び降り、空港のカウンターを目指す。


君と文化祭で踊ったワルツ。
クリスマスに二人で奏でた「愛のあいさつ」。
理事長の就任パーティで奏でた二重奏。


どれ一つとして忘れたことは無い。
今も、想い出す度、ゆっくりと鮮やかに俺の心を満たしてゆく。


その時。
…ヴァイオリンの音が聞こえたような気がした。
振り向こうとした瞬間、背後から何かがぶつかったような衝撃。


−背中から感じる、優しく、暖かな懐かしい体温。
俺の背中から回された腕は、細く、それでいて力強く俺の背中を抱き締めていた。




「…やっと、ここまで来れた」




懐かしい声。
愛おしく、何度も聞きたかった声。
何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこない。
「あのね、私一生懸命ヴァイオリン練習したよ。この場所に追いつきたくて。蓮くんに連絡を取ることも我慢して。そしたら、この春からようやく蓮くんと同じ大学に編入出来ることになったんだ」


MDに収録されていた「アヴェ・マリア」。
その音色は全てを物語っていた。
別れた時からどれだけ彼女が練習してきたか。
…そして、離れていた間どれだけ俺のことを想っていてくれていたか…。


俺の背中を抱き締めていた手をそっと包み込み、ゆっくりと剥がす。
そこでやっと振り向くと、以前より少しだけ大人びた彼女がいた。
でも、俺を見上げるその笑顔は変わらない。


「蓮くん、ずっと前に言ってくれたよね。ヴァイオリンを引き続ける限り、俺たちの道が交わる時が来るって。私はまだ、蓮くんに追いついたとは思ってない。…だけど、私も。私も同じ道の先を目指しても、いいかなあ…?」
涙を浮かべて彼女は言った。


追いつくどころか。
君は鮮やかに俺の心を奪って、手を取って道の先をどんどん走ってゆく。
俺は今まで知らなかった世界に君に連れて行かれて。
もう君なしでは新しい世界のドアを開くことは出来なくなっている。


「…以前渡した指輪は、まだ持っていてくれているだろうか…?」
「もちろん!いつも一緒にいるよ」
香穂子はそう言うと、首元からチェーンの付いた指輪を取り出した。
指輪は、渡した時と変わらず輝きを放っている。


俺は、香穂子の首に付けられたままの指輪にそっと口付けて言った。
「…これからは、共に歩んでいこう、その道の先を…」


…そうして彼女は鮮やかに笑う。
彼女の笑顔に道の先に光が見えたのを。
俺は確かに、見た。









<あとがき>
あまりに月森引継EDがせつなかったので、思わず補完してしまいました。
例え香穂子がいてもいなくても、彼は音楽の道を突き進むだろうけど、香穂子はきっとこういう道を選ぶだろうな、という管理人の勝手な想像でこのSSを創作しました。
作中に出てくるウィーンの設定などは、自分で調べた範囲で創作しているので、つっこみは勘弁して下さい(懇願)。




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