私が『京』に来て、二度目の春。 長き年月を経た、源氏と平氏の戦乱は一応の決着をつけた。 そして、私が弁慶さんと京の片隅の小さな診療所で一緒に暮らし始めてから数ヶ月が過ぎる。 京での生活に慣れ始めた、これはそんな時のお話。 「…え?」 「だから、悪いけどいつもの薬を持って行っておくれよ。お願いだからさ」 両手を合わせて、懇願する顔に少しの躊躇いを覚えた。 頼みごとの主は顔見知りの町外れに住む老年の患者さんのお嫁さんだ。 ちょうど自分の母と同じくらいの歳で、その人懐っこい性格と恰幅の良い体に妙に親近感を覚えていた女性だ。 弁慶さんに連れられて初めて彼女の家に往診に行ったときも、初めて会ったばかりの望美に優しく接してくれた。 患者さんは、彼女の義母で腰が悪く、週に一度は弁慶さんと自宅まで往診に訪れる。 その時いつも渡している湿布薬を、これからすぐ家まで届けて欲しい、と願い出ているのだ。 「丁度薬が切れちまってさ。お義母さんが腰が痛い、腰が痛いって聞かなくてねぇ。わたしが家に帰れればいいんだけど、今日はこれから産気づいた隣町のお嫁さんの所に行かなくちゃならないんだよ」 そう言うと、困ったように手を頬に当てた。 彼女の職業はお産婆さんだ。 その気風のいい性格から、近所から隣町の妊婦さんまで頼りにされている。 「旦那も、漁に出ているから数日は帰らないだろうしねぇ。まさかこんな時に先生が急患なんて…」 ほう、とため息をつく。どうやら、弁慶さんに薬を届けてもらおうという予定で自宅を出てきてしまったらしい。 その弁慶さんは今朝早くから急患で呼ばれて町外れの民家に出向いている。 今朝目覚めたら、そう枕元に書置きがしてあったのだ。起こしてくれれば良かったのに、と思ったのだが、そんなに大事ではないから、という注意書きが残されていた。 大事ではない、という判断とは裏腹に、午後を過ぎても弁慶さんはまだ帰って来ない。 もうすぐ日が傾く。 「夕暮れ過ぎたら、一人で出歩かないで下さいね」 それは、一緒に暮らし始めた頃の弁慶との約束だ。 平気、と言おうとした望美の言葉を遮って、夜の京は本当に物騒ですから、と有無を言わさない笑顔を向けられては反論のしようもない。 今は白龍の神子としての力はないし、剣も返してしまった。 戦う力が無い。 それを心配しての彼の言葉だと思ったから、その場ではしぶしぶ頷いたのだったが…。 弁慶さんの帰りはいつのなるか分からない。 いくら京に慣れてきた、と言っても自分が町外れまで薬を届けに行ったら、帰りは確実に夜になるだろう。 −約束を破ることになる。でも… 目の前の、本当に困った人を放ってはおけない。 弁慶さんだったら、きっとそうするはずだ、と自分に言い聞かせて望美は言った。 「分かりました。薬は私が届けるので、安心してお嫁さんの所へ行ってあげてください」 お家に帰ろう −急患は、刀傷だった。 どうやら、荒くれ者たちの喧嘩で刀を持ち出してきたらしい。 そう一報を聞いたとき、部屋の奥で気持ち良さそうに眠る、望美を起こすのを止めた。 患者の住処は、京の破落戸たちが集まる知られたやくざの家だ。 昔、京で『荒法師』と呼ばれていた頃に見知った顔も多くある。 そういった経緯で自分が呼ばれたのだ、という自覚もあった。 そんな所に彼女を連れて行ける訳が無い。 その家に赴くと、予想通りやくざの喧嘩で負わされた刀傷で、若い男が血まみれになって呻いていた。 出血のわりに傷は深くない、と治療にあたった。 治療の後、帰ろうとした弁慶を若頭の命の恩人だ、さすが荒法師様だ、と祭り上げられもてなしの宴に無理やり連れて行かれた。 こっちは望美との朝のひと時を邪魔されて、腹が立っていたので思わず喧嘩に刃物を持ち出すなんて、なんて愚かな行為でしょう、と長々と説教をしてしまった。 −思ったより、時間がかかってしまった。 思わず急ぎ足に陽の落ちかけた夕刻の京の町を駆け抜ける。 見慣れた住処を小さく目の先に捕らえると、思わず目を細めた。 こうやって、一人往診から帰って来るのを望美に迎えてもらうのが、弁慶の密かな楽しみだった。 −彼女に出会う前は、いつも一人だった。 冷たい、明かりの灯っていない部屋。 いくら頑張ってみても、どうしても助けられない命たち。 それとは裏腹に、人の命を犠牲にして願いを遂げようとする自分。 そんな時、迎える家は、冷たく、暗い。 でも、今は。 自分を待ってくれる人がいる。 あの扉を開ければ、彼女が『おかえりなさい』と笑って出迎えてくれる。 明かりの灯った、温かい部屋。 君がそこで笑っていてくれるだけで、僕は。 −? 中から、何の音もしない家に少し不信感を抱く。 言いようも無い不安に、少し躊躇いがちに扉を開けた。 「…のぞみ、さん…?」 −誰もいない−… 明かりも灯っていない冷たい部屋は、嫌でも弁慶を過去へと引き戻した。 思わず肝が冷えて喉の奥を、ごくり、と鳴らす。 全てが夢だったのか、と思わず錯覚する。 それは、ずっと心に引っかかっていた予感。 彼女と暮らし始めてから、考えないようにしていた、でもずっと胸につかえてきた不安の− 思わず足元がふらつくのを必死に押さえて、京の町へと走り出す。 これは夢なんかじゃない、否、夢になんかさせない、という決意を込めて− −おばあちゃん、元気になって良かったなあ。 望美は、両手いっぱいに大根を抱えて家路への道を足取り軽く、歩いていた。 心配されたお義母さんの腰の具合も、望美が持っていった湿布薬で快方へ向かい、かえって申し訳なさそうにしたお義母さんが畑から大根を何本か抜いて望美に持たせてくれたのだった。 こんなにいっぱい貰っちゃって、今日は大根のお味噌汁にしよう、弁慶さん大根好きだし、と浮き足立って京の町を歩く。 いい気になって、弁慶との約束のことをすっかり失念していた。 夕暮れの、五条大橋の近くの河原に、差し掛かった時だった。 −不意に、後ろから抱き抱えられた。 声を上げようとしたが、その瞬間知っている香りに思わず息が止まる。 彼の好きな、菊花の香り。それに少し混ざった、消毒薬のツンとした刺激が鼻腔をくすぐる。 べんけい、さん、と声を上げようとした瞬間、彼の薄茶の髪が頬にかかった。 力強く、抱き締められる腕に、思わず震える。 −泣いている? 何故か、そう思った。 「…え、えと、べ、べんけい…さん?」 「はい」 いつもの声で返事が返ってきたことに、少しほっとする。 「ここ…夕暮れで人通りが少ないといっても…往来ですよ?」 「知ってます」 「とりあえず…離してくれませんか?」 「嫌です」 きっぱりと言い放った弁慶に、怒っている、と感じた。 額を望美の右肩に押し付けているので、その表情は窺えない。 「…もしかして、怒ってます?約束破ったこと…」 「はい」 間髪入れずに返ってくる返事に、血の気が引いた。 「え、えっと!それには事情があってですね…」 「分かってます」 ぎゅっ、と握られた腕が痛い。 「…君が理由もなく約束を破るような人じゃないくらい。でも、今はしばらくこうさせて下さい」 −ずっと怖かった。 君は、京に残ることを選択してくれたけど。 いつか、自分の世界へ帰ってしまうのではないかと。 彼女があるべき世界へ帰るのは当然のことで、もし彼女が本当にそれを望めば、そうしなくてはいけないことも。 知っていて、分かっていて、それでもそんな約束で縛り付けているのは自分の我儘だ。 『夕暮れ過ぎたら、一人で出歩かないで下さいね』なんて。 彼女を自分の元へ縛り付けておきたい願望以外の何ものでもない。 「…帰りたい、ですか?」 だから、こんな風に罰を受けるように、聞いてしまう。 わざわざ自分から切られに行くような言の葉を。 心底、彼女に、望美に甘えているという自覚は、ある。 帰らない、と言って欲しい。 「…帰りたい、です」 小さく呟いた言葉は、その瞬間、確かに弁慶の心の臓を貫いた。 思っても見なかった言葉に、思わず緩めた手を望美はすり抜け、勢い良く振り向いた。 こつん、と額と額がぶつかる。 「−こんな往来で恥ずかしいじゃないですか!!…早く、家に帰りましょう」 少しむくれた君の顔が、そこにはあった。 −ああ、そうか。 ふふっ、と口元を押さえて笑い出した弁慶を見て、望美は不審そうな顔をした。 君はそういう人だ。 いつも僕の欲しい言の葉を、くれる。 予想もしなかった方向から、真っ直ぐに僕を見つめて。 −だから、そんな君だから、僕は君が好きなんですよ。 「もう、何がそんなに可笑しいんですか!!」 相変わらず声を殺して笑っている弁慶に、望美は不満顔だ。 「ああ、すみません。…ええ、家に帰りましょう。もう日もすっかり暮れてしまった」 差し出した手を、望美は何の躊躇いもなく、握った。 薄闇に繋いだ、歩き出す二つの影。 帰る所は、一緒。 こんな些細な幸せが、たまらなく嬉しい。 「ところで、その大根は?」 「えっと、話せば長くなるんですけど、これは…」 「ああ、家に帰ってからゆっくり聞きますよ。今日の約束破りの理由と」 そこで望美の耳元に口を寄せて囁く。 「お仕置きを兼ねて…ね」 さあっ、と青くなった彼女の表情を可愛いな、と思って微笑む。 「…お仕置き、あるんですか…?」 「さあ?」 にっこりと笑った弁慶に、一抹の不安を隠せない望美だった…。 |
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<あとがき> 初弁望です…。ていうか、そのタイミングじゃそう答えるだろ、弁慶さん!な話でした(笑)弁望な雰囲気出てたでしょうか…? 最初はこういう展開に持って行くつもりじゃなかったんですが、長くなりそうだったので書いてくうちにこんな展開に…私の書く小説は、思ったより長くなる傾向にあるので、次はいちゃあまな短い話が書きたいです。 close |