毎朝、主人の髪を整えるのも執事の仕事だ。
もう自分で出来るから、と断る彼女を、いいから座るようにと宥めて櫛を入れる。
きらきら、朝の太陽の光に透けて輝く薄赤茶の髪が自らの手で揺れる。
―毎日の、この瞬間が好きだった。
一度、彼女に問われたことがあった。
―短いのと長いの、どっちが好き?―と。
答えはどっちだったか、もう覚えていない。多分、どっちでも彼女に変わりはないのだから、適当に答えたのだと思う。
ただ、その日から彼女は髪を肩より短くしたことは無い、と思う。
やがて、綺麗に整えられた髪が肩口に柔らかく落ちる頃。
そっと両肩に手を置いて、鏡の中の彼女に語りかけた。
「さあ、ご登校の時間です」と。




2.seconda




朝のこの時間になると、星奏学院の校門前には黒塗りの外車が数え切れないくらい止まるのは、恒例行事となっている。
停車した車から降りると、外から後部座席に回ってドアを開ける。
車から降りると、ほぼ同じタイミングで着いた車からよく知った声が聞こえた。
「おはよう、香穂!」
「菜美!おはよう」
彼女は、天羽菜美。クラスメートであり、香穂子の一番の親友だ。紘人も、彼女のことは小さい頃からよく知っている。
彼女の存在を認めた紘人は、彼女に一礼して香穂子に言った。
「では、お嬢様。いつもの時間にお迎えに上がります」
「うん、行って来ます。帰りもよろしくね」
微笑みかけると、彼も微笑を返してから車に乗り込む。そのまま、車は滑るように走り出していった。
菜美は、意味有りげに香穂子を見る。
「ちょっと〜朝から見せ付けてくれちゃって」
「そ、そんなんじゃないよ!」
「誤魔化さなくていいわよ」
菜美の笑顔に思わず首を竦める。
菜美は、この密かな恋愛を知っているただ一人の親友だった。彼女は、星奏学院幼等部に入って初めて出来た友人だ。
人見知りだった彼女に、一番最初に話しかけてくれた。その時から、何でも話せる唯一無二の親友となったのである。
「小さい頃からずっと好きだったよね、香穂」
「うん…でもなんか、最近は…」
何だか最近は、少し冷たくされているような気がするのだ。子供の時のように、手が掛からなくなったから、と言われればそれまでだけれど。
ふっと、ため息を吐いた香穂子に、菜美は言った。
「…なんか、最近香穂、綺麗になったね」
「えぇ!?そんなことないよ!!」
いきなり何を言い出すのだ、と赤くなる。
「でも、少し元気ないみたい。何かあった?」
話せるような事は何も無いのだ。それが、問題といえば問題なのだが。
「…なんか、ね。楽しいことばっかりじゃないよね、恋愛って」
「…香穂?」
「ううん!!何でもないよ!…早く教室へ行こう、予鈴が鳴っちゃう」




柔らかな芝生に足を投げ出して、ふう、とため息を吐く。森の広場。学院の裏手は広大な森となっている。
香穂子は、この場所が好きだった。
芝生の上に直に座るなんてお嬢様らしくない、と言われるのを憚られるが、これだけ広大な森だ。奥の方へ行くと、滅多に人は来ない。
森の奥は木々が重なって、鬱蒼とした緑のカーテンを作り出している。この場所は、まるでエアポケットのようにぽっかりと木々が開けた場所であり、その隙間からゆらゆらと零れる光が優しく降り注いでいる。
何か考え事がしたかったり、一人になりたい時だったり、お昼休みにこっそり一人でやってくる秘密の場所だ。
眠くなりそう、と思わず目を瞑る。囀る鳥の声と、遠くから小さく生徒の声が聞こえる。
本当に、うとうとしかけた時だった。


がさり、と音がして、深い森の奥から人影が現れた。
びっくりして振り向くと、背の高い、20代後半から30代前半だろうか、その位の年齢の男性がこちらを見て目を見開いていた。
…漆黒の、少し癖のかかった髪。赤茶色がかった瞳は、冷たそうでもあり、何かを見定めるように鋭くもある。
一目で上質、と分かる紺色のスーツ。見覚えのある教師ではない、と思う。
「…失礼」
その声に、自分の置かれている状況を認識する。
「あ…ごめんなさい!」
慌てて立ち上がって、一礼するとそのまま校舎のほうへ走り出した。


彼女の、走っていった方向をしばらく眺める。
…まさか、こんな所に人がいるとは思わなかった。しかも、女子が芝生の上に足を投げ出して。
星奏学院は、良家の子息・子女が通う学校だ。珍しいお嬢さんもいるものだ、と彼女の座っていた所にふと目をやると、何か落ちているのに気がついた。
その、白い布を拾い上げる。ハンカチのようだった。赤い糸で刺繍がしてある。
―Kahoko.H―
「…かほこ、か―」
そのハンカチを見つめて、口の端でふっと笑う。
「思わぬ拾い物かもしれないな」


…びっくりした。まさか、あの場所に人が来るなんて。校外からの来訪者だろうか。
別に悪いことをしているわけではないのに、逃げ出すことは無かったかも、と思う。
エントランスまで戻り、柱に掛かっている時計に目をやると、もう教室に戻っても良い時間だ。
このまま、教室に戻ろう、と思ってふと我に返る。
…ハンカチが無い。
しまった、と思う。お昼御飯の時にはあったのだから、きっとあの場所に忘れてきたのだろう。
…あれは、ヒロトに10歳の誕生日に貰った大切な物なのに。
思わず引き返そう、と踵を返すと、向こうから菜美がやって来る。
「あ、いたいた、香穂!もうチャイム鳴るよ!」
「あ…でも」
「もう、随分探したんだから。早く〜」
すでに彼女は2歩3歩先に行って手招きする。
どうせ誰も来ないような場所だから、放課後授業が終わったら直ぐ探しに行こう、と後ろ髪を引かれる思いがしながらも、教室へと歩を進めた。


―しかし、その日の放課後あの場所をいくら探してもハンカチは見つからなかった。
迎えに来たヒロトに、どうしてもその事が言えなかった。図らずも、彼に隠し事が一つ出来た。






…ついにこの日が来てしまった。
星奏舞踏会当日。
紘人は、人知れずため息を吐いた。
この日は生徒は勿論、校外から各界の来賓を招いて、校内の迎賓館で盛大なパーティーを催す。
連日の特訓のお陰か、香穂子のダンスもそれなりに形になっていた。
日野邸の彼女の部屋で、ドレスに着替える。ドレスは、この日のために用意した純白のエンパイアドレスだ。仕立て屋に採寸させ、生地も自分の目で選んでデザインもいくつかの候補から絞り込んだ特注のドレス。
胸元から段々に、金の刺繍がされた布地が広がるデザインが、きっと彼女に映えるだろうと仕上がりを見て内心でほくそ笑んだものだ。
「…ヒロト?」
彼女の呼び掛けに、妄想から現実に引き戻され、ゴホン、と一度咳払いをした。
「お召しになられましたか?」
彼女は、衝立の向こうでドレスに着替えている。衝立を背にしていたので、背中越しに問い掛けてみた。
「…えっと、どう、かな…?」
…現れた彼女は、予想以上だった。
胸元でぴったりさせ、首元でストラップを結ぶデザインのドレスは、その肌の白さを際立たせている。何より、純白という色が彼女をより大人に見せていた。ふわり、と動くたびに揺れるスカートが、薔薇が咲いたように鮮やかだ。
「…良く、お似合いです」
そう言って微笑みかけると、彼女は安心したようにほっと息を吐いた。
「では、靴を」
その言葉に、彼女は近くにあった椅子に座る。そして、自身はその前に跪いた。
…直ぐに下を向く理由があって良かった。自分は今、とても情けない顔をしているだろう。
部屋履きに素足の彼女に、白いパンプスを履かせる。これも、ドレスと一緒に用意していたものだ。
ストラップを結ぶ手が、震えていなければ良いが。内心の動揺を必死に抑えつつ、スナップを止めた。
「髪型は、下ろしている方が良いかな、まとめた方が良いかな、どっちが良いと思う?」
そう言うと、指で髪をまとめて持ち上げる。白いうなじが露わになる。
「ヒロトの、好きな方で良いよ」
…おいおい、そんな可愛い事言ってくれるなよ、と内心で途方に暮れる。今だって、理性を保っているのが精一杯なのだ。これ以上爆弾を落とされたら、たまったもんじゃない。
櫛で髪を梳いて、丁寧にまとめてゆく。
「…ヒロトは、髪の毛が長い方が好きなんだよね」
えへへ、と笑って両指を合わせる様子を、後ろから見ていた。ああ、やばい、これ以上は。服装のせいなのか、舞踏会という非日常への昂りなのか、今日の彼女の可愛さは3割増しだ。


…これから。
彼女は何処の者とも分からない、男と踊るのだ。こんなに着飾るのも、全てそのため。
…髪を、いつもより丁寧に梳く。
少しでも、自分の痕を彼女に残しておきたくて。
いつも朝日に反射してきらきらと輝く髪が、今は夕闇の中シャンデリアの柔らかな光だけが照らしている。
その光だけが二人を浮かび上がらせて、幻想的な風景を作り出していた。
綺麗にまとめた髪をドレスとおそろいの花の髪飾りで飾る。
全て準備が完了したお姫様は、立ち上がって全身の映る鏡の前でくるり、と一回転してみせた。
そうして鏡の前に立つと、物憂げな表情で言った。
「…ダンス、ちゃんと踊れるかな…?」
…ああ。誰の目にも触れないように閉じ込めておきたいけれども。
そっと彼女の両肩を支えるように手を置くと、耳元で囁いた。
「大丈夫、自信を持って。…俺を信じて」
離れる瞬間、彼女の耳が赤く染まるのに罪悪感を覚える。そのまま、「お車の準備をして来ます」と短く言って扉に向かった時だった。


「待って」
振り向くと、目の前に歩いて来た彼女は、おもむろにドレスの両裾を指で軽く持ち上げるとちょこんと小さなお辞儀をした。
そして、執事にあるまじき欲にまみれた愚かな男の前で言うのだ。


「私と、踊っていただけますか?」と。


今にも泣き出しそうに、でも無理に笑って手を差し伸べるその表情に。
「…喜んで」
そう、言って、差し出された手を取るのが精一杯だった。


―情けない、男だ。


曲もない、ゆっくりとステップだけを踏む、足音だけの部屋。
腕の中から、その温もりだけが伝わってきて。
微かに震えるその華奢な肩を、今にも折れそうなその細い腰を。
何度も、抱き締めたくて、抱き締めたくてその度に押し留める。


やがて、どちらかともなく体を離すと、彼女は泣きそうな笑顔で言った。
「…有難う」
その言葉に軽くお辞儀をして、彼女の部屋を後にする。
閉じた扉に背を預けて、額を押さえて息を吐いた。
今、自分は酷い顔をしているだろう。…本当は、触らせたくないのだ、彼女を誰にも。


香穂子は、自分の体をぎゅっと抱き締めた。
その温もりを忘れないよう。






星奏学院高等部の校門前は、いつもとはまた違った雰囲気の華やかな賑わいを見せていた。
校内のあちこちが花や照明などで飾り付けられており、夜の学院内を彩っている。
舞踏会といえども、生徒以外の来賓は招待状が無いと学院内に入れない。もちろん、日野家の執事である紘人は学院内に入ることは許されないのである。
いつもそうしているように、後部座席に回ってドアを開ける。今日は流石にいつもと違って気が重い。
「…じゃあ、帰る時に携帯から電話するから」
帰りは何時になるか分からない。鞄を受け取りながら香穂子はそう言った。
「いえ。私は敷地内の駐車場でお待ちしております。連絡を下されば、直ぐにこちらまでお迎えに上がりますので」
「え…いいよ!!何時になるか分からないし…」
自分が待ちたいのだ。何も言わずにお辞儀をしたままでいると、彼女はほっとしたように言った。
「ありがとう。…じゃあ、行って来ます」
去っていく彼女の小さな背中をしばらく見守る。
見えなくなってから、運転席に座って静かに駐車場へと車を移動させた。




舞踏会の会場である迎賓館に入ると、そこはまるで別世界だった。
華やかに飾り付けされた内装、広大なホールに大勢の人が思い思いの時間を過ごしていた。
真っ白なクロスの敷かれた丸いテーブルが数え切れない程配置され、色とりどりのオードブルが配膳されている。
その間を、この日のために雇われたのだろうか、飲み物を持ったボーイが忙しく歩き回っている。
料理を立食で楽しむ人、飲み物を片手に歓談する人。
迎賓館の中央には、広く開けられたスペースで、流れる優雅な音楽に合わせて男女がワルツを踊っていた。
その雰囲気に圧倒されて、思わず小さい頃に克服した筈の人見知りの気質が顔を覗かせる。
気後れして、隅の方で立ち尽くしていた時だった。
「香穂!」
親友の菜美が、一眼レフのカメラを片手にやってくる。彼女は、他の多くの女生徒がそうしているようにドレスではなく、パンツスーツだった。とても良く似合ってはいるけれども。
「菜美!!その格好」
「あ〜私報道部でしょ。写真を撮らせて回らせてもらってるの」
そう言うと、早速一枚、と香穂子に向けてシャッターを切った。
「でも、折角の星奏舞踏会なのに」
「正直、私舞踏会なんて肩の凝るもの好きじゃないし。父は小さな新聞社を経営しているだけだから、将来の勉強、なんて必要ないしね」
片目をつぶってみせる。彼女の父親は新聞社の社長だ。確かに、あまり大きな企業とは言えない。
彼女は日頃から、幼い頃から星奏学院に通わされているのは親の見栄、と言い放っていた。
然るべき家柄の婿を貰い、新聞社を継いでくれることこそ親孝行、と口が酸っぱくなるほど言われている、バカみたい、と苦虫を潰したような表情で語ったこともある。
なのに自身は将来フォトジャーナリストになりたい、と言う。例え普段あまり良く言わない親のことでも、ちゃんと影響を受けているんだなあと、彼女のそういう所が好きだと思ったものだ。
「じゃあ、ひと回りしてくる。香穂は舞踏会、楽しんで」
「うん。有難う」
片手を振って遠ざかっていく彼女に手を振ると、また一人になった。
そっと、ため息を吐く。…これから、どうしよう。


不意に、入り口の方で歓声が上がった。
「見て見て、吉羅さんよ!」
「本当!!素敵〜」
漆黒の、少し癖のかかった髪。赤茶色がかった瞳。
黒のスーツは、胸元にハンカチーフを入れて少しフォーマルにしている。
この間、森の広場で会った人だ、と直ぐに分かった。


「…珍しいな、吉羅財閥の御曹司がこんな高校生のお祭りにやって来るとは」
「人前に出るのを極端に嫌う人ですからねえ」
近くの、来賓らしい初老の男性と中年の男性が小さな声で話すのが耳に入った。
彼を見ると、生徒とも来賓ともかかわらず、沢山の女性に囲まれている。
表情を見ると、眉間に皺が寄っている。何だか少し迷惑そうだ。
有名な人なんだ、とぼんやりその様子を見ていたから、誰かが近寄ってきたことに全く気付かなかった。
「日野先輩」
呼ばれて振り返ると、正装した生徒と思われる男子が右手を胸に当ててお辞儀をしていた。頬が上気していて、赤い。
…誰だろう。部活に入っていないので、下級生の男子に知り合いはいないと思うが。
「えっと…」
「僕と踊ってくれませんか?」
改めて見ても全く知らない顔に、一瞬躊躇していると彼は思わぬ行動に出た。
「あの!!僕のこと、ご存じないと思いますけど、ずっと先輩に憧れてて、ずっと見てました!!」
言っている内に興奮してきたのだろう、詰め寄ってきた彼に思わず後ずさる。
「あ、あの…」
「ずっと舞踏会で踊れるのを夢見てきたんです!!僕、…ずっと、先輩のことが―」
周りを見渡すと、彼の剣幕に何事だろう、と注目され始めていた。
どうしよう、困る!!とりあえず彼を落ち着かせようと口を開きかけた、その時。


「―こんな所で愛の告白とは、あまり良いやり方では無いね」


声の方を振り返ると。
吉羅、と呼ばれた彼が立っていた。


「女性を誘う時は、もっとスマートに誘うものだ。…そう、こんな風にね」
彼はそう言うと、あっという間に私の手を取って腰を抱いた。
ふわり、と品の良いコロンが香る。
「もっと勉強してから出直したまえ」
その言葉に顔を赤くした彼は、一目散に何処かへ消えていった。少し、申し訳無い事をしたかな、と思う。
「さて、お嬢さん。このまま、一曲お相手願えるかな?」
…この状況で断れる筈は無い。断ったら、失礼に当たる。そう思わせるほど彼の手際は鮮やかだった。
しかも、何の断りも無くいきなり密着されても不思議なほど不快ではない。かなり手馴れている、と内心で思った。
少し警戒しながらも、助けてもらったのだから悪い人ではないだろう、と笑顔を作った。
「…ええ。喜んで」


彼の動きに合わせて、フロアの中央にやってくると、周りの人がすっとスペースを空けるように引いていった。
吉羅、と呼ばれた彼のリードは完璧だった。優雅でいて、力強い。
…ヒロトとは、まるで違う。
ヒロトは、常に私の動きを気にしてくれる。私が動きやすいように動いてくれる。
指導する口調は厳しくとも、甘やかしてくれているのが、分かる。
だから、気持ちが良い。
彼はまるで正反対だ。
決して私の動きに合わせてくれるのでは無い。こちらの動きを先読みするように、動く。
自分についていかせるために、私を誘導しているような動き。
でも、むしろそれが心地良い、とさえ感じさせてしまう。
…不思議な人だ、と思う。
「何をお考えかな?お嬢さん」
その声にハッとする。
「あ…いえ!…あの、助けて頂いて有難うございました」
「お礼を言われる必要は無い。周りに迷惑を掛けていたからね。高名な星奏学院といえども、まだまだ勉強が必要な生徒が多いらしい」
ちらり、と先程周りを取り巻いていた女生徒達を一瞥する。
「かえって私の方が君を利用させて頂いたようで恐縮する。…私は、吉羅暁彦。君の名を、聞かせて頂いて宜しいかね?」
「私は日野香穂子と言います。2学年です」
「そう。良い名だ。…この間、学院の敷地内で会ったね?」
最後の方を私の耳元で小さな声で囁いた。その不意打ちに、動揺していると曲がフィニッシュを向かえた。
そっと彼が体を離す。大きな拍手が辺りを包んだ。
気まずくて、何か言おうと口を開きかけると、彼が先に口を開いた。
「どうかね。私の話に少し付き合ってくれないか」
「…はい。喜んで」
そう言うとにっこり笑う。ここで断ったらお嬢様としての資質を問われる。
彼は近くを通ったボーイに片手を上げると、飲み物の入ったグラスを二つ取って一つを私に渡した。
「では。今宵の出会いに乾杯」
「…乾杯」
グラスを片手で軽く持ち上げる仕草が、嫌味なく様になる。
葡萄ジュースと思われる紫色の液体を、どうやって言い訳しようと思案しながら飲むと、彼は言った。
「何故、あの場所にいたのかね?」
「―私、あの場所を偶然見つけてからあそこが好きで、よく行くんです。緑は綺麗だし、人は滅多に来ないし、一人になれる場所っていうか」
「…そうかね」
「そう言えば、吉羅さんはどうしてあの場所にいたんですか?…生徒、だって、あんまり…来ないし…」
「気になるかね?」
「…い、え…ただ、ふしぎ、で…」
何かがおかしい。目の前が段々暗くなってゆく。全身の力が抜けてゆく。
ふらり、と体が大きく揺らいだ。
「…大丈夫かね?ああ、グラスを預かろう」
そう言って私の手からグラスを取り上げる彼の顔が、冷たく、嗤っているように、見えた。
脳裏に、一瞬ヒロトの顔が浮かぶ。
―そうだ、はんかち、しらないか、このひとにきかないと…
完全に意識を手放した頃、誰か力強い腕に支えられたような、気がした。
ヒロトじゃない、別の誰かの、腕。
知らないコロンの香り。
あたまの、なかで、だれかが警鐘を鳴らす。


―ヒロト。


誰かに呼ばれたような気がして、振り向く。
迎賓館の方から、相変わらず楽しそうな声が時々聞こえる。
煙草を指に挟んで煙を吐いた。香穂子に仕え始めてから止めた煙草だ。
苦々しく見上げた空には、満天の星空があざ笑うように輝いていた。









<あとがき>
はい、吉羅さん登場です。偽者っぽいです(笑)
ドロドロでべったべたな展開です、何故なら私が昼ドラとか韓流ドラマ大好きだからです!!と開き直ってみる。
大丈夫ですか、面白いですか?(ドキドキ)
自分で思ったよりも長くなりそうです、呆れず次回もお付き合いして下さると嬉しいです。



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